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「社員が整理券を手作り」「強風でテントが飛ぶ」! ファン感謝祭の先駆け「ニスモフェスティバル」誕生秘話

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TEXT: 酒呑童子  PHOTO: NISMO/酒呑童子/Auto Messe Web

メーカー系感謝祭のパイオニア「ニスモフェスティバル」を振り返る

 毎年レースシーズンがオフとなる時期に開催されるNISMO FESTIVAL(以下、ニスモフェスティバル)。日産のモータースポーツ史を彩ってきた数々の名車が一堂に会し、レーシングコースを疾走するさまは、まさに世代を超えて楽しめるイベントとして人気がある。日産のモータースポーツ史は、そのまま日本のモータースポーツ史と置き換えても良いだろう。ニスモフェスティバル

 

ニスモフェスティバルはモータースポーツイベントの先駆けだった

 ニスモフェスティバルは1997年に第1回が開催された。今でこそ、ほかの自動車メーカーも同じようなモータースポーツイベントを開催しているが、その先駆けだった。

 1997年の第1回ニスモフェスティバル開催のきっかけにはR33GT-Rが少なからず関係している。ニスモは1995年、1996年とR33GT-Rでル・マン24時間レースに挑戦。ニスモフェスティバルその際、ファンとともにル・マンを目指そうという趣旨で“クラブ・ルマン”というファンクラブを組織した。いわばサッカーのJリーグにおけるサポーターズクラブのようなものだった。当時、会員数は1万人を超えていたというから、かなり大きな組織だった。ニスモフェスティバル

 ところが、ル・マンの車両規則が変わり、マクラーレンF1GTRに代表されるようなプロトタイプカーに移行する流れとなった。1996年にはもはやプロトタイプでないと勝てない状況になり、日産・ニスモは翌1997年にはR390というプロトタイプで参戦する苦渋の決断をしたのだ。ニスモフェスティバル

 問題は、クラブ・ルマンがR33GT-Rでル・マンに3年計画で挑戦することを応援する組織だったこと。ところが、R33GT-Rでの挑戦は2年となり翌年からはR390にスイッチする。ニスモフェスティバルそこで応援してくれるファンに対し「クルマはR390に変わるけど、これからも日産の応援をよろしくお願いします!」と節目をつける必要があった。そこで計画されたのが第1回のニスモフェスティバルというイベントだったのだ。

 

ニスモフェスティバルの前身「NISMOパドック感謝祭」

 じつは第1回ニスモフェスティバルからさかのぼること10年前の1987年12月に、ニスモは“NISMOパドック感謝祭”というファン感謝イベントを当時の大森本社で開催し、約3000人のファンが訪れた。ニスモ創立からわずか3年後のことで、パーツやグッズ販売を行うニスモの営業部門主体のイベントだった。ちなみに“NISMOパドック”とは当時のニスモパーツやグッズを扱う店舗の名称で、現在のNISMOパフォーマンスセンターに相当する日産ディーラーの店舗だった。

 翌1988年7月には“NISMOサマーフェスティバル”と名称を改めた。ニスモフェスティバルニスモの営業部門が主体となって、毎年7月の恒例イベントとして1991年まで大森本社で開催された。ニスモフェスティバル 1992年には、イベント名称を“NISMOフェスティバル’92”と改め、レースシーズンがオフとなる11月に追浜工場の敷地で初の全社イベントとして開催、8700人の来場者を集めた。このとき、テストコースでグループCカーとグループA仕様R32GT-Rのゼロヨン対決や、ザウルスジュニアというワンメイクフォーミュラカーの体験試乗を実施した。またドライバートークショーやガレージセールなども行われ、現在のニスモフェスティバルの原形となるようなイベントであった。しかし、このファン感謝イベントは1992年の追浜を最後に途絶えてしまったのだ。

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