超弩級のスペックで最新技術を満載
R380はその後、レース仕様のR380-I、R380A-I、R380A-II、R380A-IIIと改良が加えられながら進化していくと同時に、プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併されたのを機に日産R380と名を変えていきました。
おそらくは同時代のグループ6としては世界的に見ても高いレベルに仕上がっていました。また68年以降の日本グランプリ用主戦マシンとして、5~6LのV12エンジンを搭載したグループ7既定のR381、R382 、そして幻のR383へと発展していきます。
ちなみにR381は初期段階ではグループ6としてクローズドのクーペボディで開発が進められていましたが、日本グランプリのレース規則が変更されてグループ7の出走が可能になったことで、より高いパフォーマンスが発揮できるグループ7に設計変更されたのは、多く知られるところです。
そんな出自のR380ですが、最高出力は1966年の日本グランプリに出場したR380A-Iで200ps以上、最終モデルのR380A-III改で250ps以上(ともに公称)でした。現在では2Lのロードゴーイングモデルでも、例えば2007年に登場したホンダのS2000は250psを発生していますから、数値的には驚くには値しないのですが、それが今から半世紀以上もの過去に実現していたことには驚きを隠せません。
ツインカムの4バルブも、今では軽トラックでも当たり前のメカニズムとなっていますが、当時はまだプッシュロッドも幅を利かせていて、ニューモデルのキャッチコピーに「クラス初のOHCエンジン」と謳われているような時代でした。その時代背景を考えるなら、ツインカム24バルブというのが、超弩級のメカニズムだったことは容易に理解できるでしょう。
そう、R380のすごいところは、当時としては超弩級のスペックを誇り、最新技術を惜しげもなく盛り込んでいたことです。戦争が航空機の技術を革新し、自動車レースが自動車技術の進化を促すというフレーズを、地で行くケースだったことにほかなりません。
さらにもうひとつ、第2回日本グランプリで完敗を喫したポルシェを仮想敵として新たなウェポンを製作し続けたことも、R380のすごい一面を示しています。自動車レースのスタンダードとされてきたポルシェを目標に頑張った結果がグループ6のR380であり、国内メーカーのマシンも含めて80年代から90年代にかけての、一連の国産グループCカーでした。国産初の純レーシングカーだったR380は、その後のレーシングスポーツの進化の、マイルストーンの原点となった1台でもあったのです。