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バカッ速だけど真っ直ぐ走らせるのが困難! 衝撃の気むずかし屋スーパーカー「ランチア・ストラトス」とは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了/FCA

パッケージからも容易に想像できたコーナリングマシン

 それでばストラトスのメカニズムを紹介していきましょう。まずはクルマのキャラクターを決定づけるパッケージから。フィオリオが要求した最初の課題、高い運動性能を実現するために、エンジンはフィアット・グループ同門のフェラーリからディーノ用2.4L V6を獲得。ランチア・ストラトス

 これをミッドシップに搭載するシャシーは、キャビン部分のモノコックと、その前後にパイプで構成したサブフレームを組み合わせたもので、サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーンでリヤはストラット式。

 特徴的だったのは前後のトレッド1430/1460mmに対してホイールベースが2180mmと極端に短かったこと。WRCの前任マシンであるフルビア・クーペに比べてトレッドがフロントで40mm、リヤが125mmも幅広くなっているのに対してホイールベースは何と150mmも短縮されています。ランチア・ストラトス

 実際問題、全長が3mだったころの軽乗用車で、もっともホイールベースが長かったシャンテと比べても20mm短く、超ショートなホイールベースとなっています。これはラリーマシンとしての資質を高めるための手法えです。

 一般的にホイールベースが長くなれば直進安定性が高まり、反対にホイールベースが短くなれば回頭性が高まってコーナリングでアドバンテージが生まれると言われています。これだけホイールベースが短いと、ドライビングはとてもセンシティブになり、ドライバーを選ぶクルマになったであろうことは想像に難くありません。

ラリーを戦ったドライバーは「まっすぐ走るのは困難で気が抜けない」

 実際ストラトスでラリーを戦ったドライバーからは「真っ直ぐ走るときにもまったく気が抜けない」、「コースがすべてコーナーだったらいいのに!」などというコメントが聞かれるほどだったようです。ランチア・ストラトス

 それだけドライビングに対してシビアだったストラトスですが、ワークスチームの“腕利き”がドライブすると、ターマックでもグラベルでも路面を問わず、さらには氷雪路においてもライバルを圧倒する速さを見せつけることになりました。ランチア・ストラトス

 まだグループ4としてのホモロゲーションがなく、プロトタイプクラスでのデビューとなった1972年のツール・ド・コルスではサスペンションのトラブルでリタイアに終わったものの、このときから速さの一端を見せていました。

 そして1974年の10月にグループ4としてのホモロゲーションが発効されると、翌2日から始まったサンレモ・ラリーに参戦してエースのサンドロ・ムナーリが快走。グループ4のデビューを優勝で飾っています。さらに2週間後にカナダで開催されたリデウ湖ラリーでムナーリが連勝。さらにシリーズ最終戦となったツール・ド・コルスではジャン-クロード・アンドリューが1973年のモンテカルロにアルピーヌで優勝を飾って以来の2勝目をマークしました。

 このシーズンでストラトスは都合3勝を挙げ、ランチアはWRCで念願だったマニュファクチャラータイトルを手に入れることに。さらに1975年と1976年にもそれぞれ4勝ずつをマークして3年連続でWRC王者に輝いています。ランチア・ストラトス

 1977年からは同門のフィアットがWRCを戦うことになり、ストラトスの活躍の場はサーキットへと移っていきます。ル・マン24時間などのスポーツカー世界選手権に加えてタルガフローリオのような公道クラシックイベントにも参戦。

 ラリーではグループ4仕様で戦っていましたが、こうしたレースではホイールベースを延長するなどしてグループ5に移行していました。一方、グループ4仕様のままツーリングカーレースに参戦し、1981年にはスペインのツーリング化選手権で王者となりました。

 ヨーロッパで盛んだったラリークロスでも活躍し、F1ドライバーとして活躍したアレクサンダー・ブルツの父、フランツ・ブルツが76年にはERAヨーロッパラリークロス選手権でチャンピオンに輝いています。ランチア・ストラトス

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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