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サーキットで輝くことが最大の使命! GT-RとフェアレディZへ50周年記念モデル誕生

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TEXT: 山本 亨  PHOTO: 増田貴広/木村 拓/NISSAN

「50周年記念車」が期間限定でついに登場

 PGC10と言ってわかる人は、かなりの自動車マニアの方です。大方の人は「なんの暗号?」と思ってしまいますが、実はこのPGC10は1969年にデビューした初代日産スカイライン4ドアセダンGT-Rの型式番号。通称、ハコスカの4ドアGT-Rのことです。

 時代はまさしく高度成長期で高速道路もあちこちに出来始め、日本の自動車も高性能化が進んでいる真っ最中に出現したのが、スカイライン4ドアGT-Rでした。それまでスカイラインGTやGT-Xに搭載されていた直列6気筒のOHCエンジンを、レースで培ったノウハウを注ぎ込んだS20と言われる超高性能なDOHC直列6気筒エンジンに載せ替えたのがGT-Rでした。

 しかもそれまでの市販型DOHCエンジンは1気筒あたり2バルブだったのが、日産はレーシングエンジンさながらに1気筒あたり4バルブとし、さらに高性能キャブレターであったソレックス製気化器を3連装したセミレーシングカーみたいなモデルを市販化したのでした。

 もちろん日産は、この超高性能4ドアセダンGT-Rを1969年2月に市販化し、5月にはレースに実戦投入。JAFグランプリに初参戦し、トヨタ1600GTの執拗なまでのブロック攻勢で惜しくもデビューレースは2位という結果でした。しかしレース後にトヨタのブロックが審査対象となり、トップでゴールした1600GTが「走路妨害」を取られ、ホロ苦いGT-R伝説の初勝利となったのでした。

 日産のワークスドライバーには高橋国光、長谷見昌弘、星野一義、北野元など錚々たるメンバーに加え、今でも自動車誌のCARトップで連載を持つ「ガンさん」こと黒澤元治などがステアリングを握っていました。

 実は4ドア版のGT-Rは、1971年3月の全日本鈴鹿自動車レースでデビューを飾るKPGC10型のスカイライン2ドアハードトップGT-Rよりもレースでの勝利数が多いのです。ハコスカGT-Rのレース伝説として語り継がれている49連勝(通算52勝)の内訳ですが、4ドアGT-Rの36(連)勝に対して、2ドアGT-Rは16勝とだったのです。

 一方、S30型と言われる初代フェアレディZですが、こちらもZ432というハイパフォーマンスモデルを市販化。エンジンは、GT-Rに搭載したS20型エンジンを搭載し、4バルブ・3連装キャブ・2カムシャフトからZ432のネーミングとなりました。しかも「Z432R」というレーシングバージョンまで限定販売したことからも、日産のZ432への期待がどれほど高かったか伺い知れます。
 しかしフェアレディZ432のレーシングマシンは短命で、すぐに240Zへとスイッチ。「Zの柳田」と言われる柳田春人や当時240Zのデビューレースで初優勝に導いた黒澤元治も異口同音に「L24型の2.4リッターOHCエンジンの方がトルクもあって扱いやすく、高回転型エンジンのS20は振動が多くミッションへの負担が大きく壊れやすかった。また、フェアレディZはハコスカに比べてボディ剛性が低かったせいかもしれない」と述懐。

 さらに柳田は「OHCのL24だとトルクがある分だけ高回転を使わずに済むから振動も少なく、中速域からのレスポンスが良かった」とも話してくれました。

 北米に輸出され人気だったオープンモデル「DATSUN 2000(SRL311)」に代わって、さらにアメリカ人に人気を博したのがロングノーズショートデッキのS30型フェアレディZでした。どれほど人気だったかというと、2ドア2シーターの不便なスポーツカーS30/S31型フェアレディZが約55万台という大ヒットとなる販売台数を記録したのです。

 もちろんこのモデルチェンジを機にレースシーンでもフェアレディZが大活躍。北米で人気だったSCCAトランザムレースにSRL311フェアレディで参戦し、レースビジネスを成功させたピート・ブロック率いるBRE(ブロック・レーシング・エンタープライズ)に対して、北米日産の片山豊社長(ミスターZ)が提案したのが新型フェアレディZでの参戦でした。

 当初から日産はフェアレディZの北米輸出は排気量の大きい240Zしか考えておらず、扱いが難しく神経質なZ432とS20エンジンでの販売とレース参戦は計画さえなかったようです。しかし、それが後々プライベーターの多いSCCAでは大成功することになります。

 1970年初頭、BREに送り込まれた20台のフェアレディZは、オーバーフェンダーがついていないノーマルボディの240Z。これをBREが手がけて名手ジョン・モートンがステアリングを握りました。そのカラーリングが有名な、白ベースのボディに赤色と水色のラインの入った「♯46 ジョン・モートン仕様」のフェアレディ240Zです。

 ジョン・モートンは、1970年シーズンに快進撃を続けてBREフェアレディ240Zをナショナルシリーズのチャンピオンに導きます。さらに翌1971年優勝して2連覇を達成。1972年と73年はBRE同様に北米日産のバックアップを受けていたボブ・シャープ・レーシングがやはり240Zで2連覇を達成したのです。 しかしフェアレディ240Zの快進撃はこれに止まりませんでした。これらのセミワークス扱いではないプライベーターチームが、軽量でチューニングが容易で壊れにくく、しかも車両価格もパーツも安いフェアレディ240Zをベースにレース参戦して大活躍。結局、BREフェアレディ240Zが1970年にSCCAで勝ち取ったナショナルチャンピオンは、1979年まで10年連続で240Zが勝ち続けるほど圧倒的なパフォーマンスを持っていたのです。

 ロングノーズショートデッキのプロポーションはもちろんのこと、L型エンジンは先述したように誰もが簡単にパワーを引き出せ壊れず、しかもパーツが豊富で安価ということが、アメリカでフェアレディZが人気だった理由なのかもしれません。

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