クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • SPORT
  • 昭和の人気レース「スーパーシルエット」 源流はポルシェやBMWが参戦した欧州のレース
SPORT
share:

昭和の人気レース「スーパーシルエット」 源流はポルシェやBMWが参戦した欧州のレース

投稿日:

TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了、ポルシェジャパン、Auto Messe Web編集部

より多くのメーカーに参戦を促す目的で誕生

 日産のターボ三兄弟(スカイライン、シルビア、ブルーバード)など、70年代の終盤から80年代序盤に、国内のレース界で高い人気を誇っていたスーパーシルエット。市販車をベースに大きく張り出したフェンダーやウイングを装着したマシンは若者の憧れで、それを模した街道レーサーと呼ばれる改造車が登場しました。

 その源流といえば、当時は国際自動車連盟(FIA)の下部組織だった国際スポーツ委員会(CSI)が、1976年により多くのメーカーに参加を促す目的で、グループ5というクラスのレース車輛規定を立ち上げたことにあります。今回は、日本で大人気だったスーパーシルエットの基となった海外レースに参戦したマシンを振り返ってみましょう。

 CSIがグループ1~4のツーリングカーやGTカーをベースに、新たなグループ5として大幅な改造を施した“特殊プロダクションカー”というカテゴリーを創設すると、いろいろな魅力的な競技車両が誕生して来たのです。

 具体的にはポルシェ935、ランチア・ストラトス、ランチア・ベータ モンテカルロ、BMW・3.5CSL、BMW・320ターボ、BMW・M1など、メーカー選手権などのスポーツカーレースで活躍したことが知られています。

ポルシェの圧倒的な強さがカテゴリーを終焉に

 スーパーシルエット(グループ5)として、まず最初に思い浮かぶクルマといえば、やはりポルシェの935でしょう。74年に登場した930型ポルシェ911のグループ4レース仕様(934)をベースに、グループ5のレーシングカーにコンバートされたのが935なのです。

 大きく張り出した前後のフェンダーに加えて、フロントフェンダーの形状変更も認められていることからヘッドライトをフロントノーズ先端の低い位置に移したローノーズが大きな特徴となっています。

 北米のCan-Amレースで鍛えられたターボエンジンは、911/75をベースにターボ係数(1.4)を掛けて4リッター以下に収まるようボアを縮め総排気量2857ccに縮小していました。

 76年にデビューし、77年には935/77に進化すると、主に2リッター以下のクラスに参戦するためにエンジンを1425ccに縮小した935/2“Baby”も登場。

 そして78年には究極の最終モデルとして935/78“Moby Dick”へと進化しています。その結果、ポルシェのパフォーマンスはライバルを一蹴することになり、結果的にレースシリーズやカテゴリーそのものが終焉を迎えることになってしまいました。

 博物館巡りを長年続けてきて、ポルシェ博物館にも何度か足を運んできました。写真は主にポルシェ博物館で撮影したものです。しかし残念ながら、935の最終進化形となるこの935/78“Moby Dick”とだけはまだ出会うことが叶っていません。これからも博物館巡りを続けるしかないですね。

 

ラリー以外でも活躍したランチア・ストラトス

 ランチア・ストラトスは、ラリー参戦を目的に、ベルトーネがフェラーリのエンジンを車体中央に配するミッドシップレイアウトを採用したクルマです。まだ黎明期だった世界ラリー選手権(WRC)にグループ4仕様で参戦しました。

 74年のサンレモ・ラリーで初優勝を飾ると都合3勝を挙げて同年のチャンピオンとなり、以後も75年、76年と3連覇を果たしています。

 このことからラリーカーとしての印象が強いのですが、ストラダーレ(市販モデル)がグループ4としてホモロゲーションを受けてラリーにデビューする前、プロトティーポが参戦できるサーキットレースにも参戦。この時の仕様がグループ5=シルエットフォーミュラでした。

 絶対的なパワーがより必要となる“レース”参戦に向けてターボチャージャーを装着するなど、エンジンを更にチューニング。同時に、ナーバスに過ぎるドライバビリティを改善するためにホイールベースを140mmも延長するなど、シャシーにも大きな変更が加えられていました。

 外観では大袈裟なフロントスポイラーや派手なリアウィングなど、エアロを追求したカウルワークが大きな特徴となっていました。80年代には、サーキットと未舗装路を混合したコースで競うラリークロスなどに参戦するため、派手なエアロを省略した仕様も登場しました。

ストラトスの後継レース車としてベータ・モンテカルロ

 ランチア・ストラトスが、次第にラリー専用へと活動範囲が変化し、空白となっていったレース部門に後継モデルとして投入されたのがベータ・モンテカルロでした。ベースモデルは当初、グループ会社であるフィアットX1/9の上級モデルとして開発されていましたが、デビュー直前になってランチア・ブランドが与えられることになりました。

 レースには、グループ5仕様にコンバートされ、79年の世界メーカー選手権の第6戦・シルバーストンで本格デビューを果たしています。この時はエンジントラブルからリタイアに終わりましたが、第8戦のエンナ-ペルグサ(イタリア)で総合2位/グループ5のクラス優勝を飾ると第8戦のブランズハッチでもクラス優勝を飾り、2リッター以下のクラスでチャンピオンを獲得。

 80年、81年と3年連続でクラス王者をキープし続けていました。その後82年からはメーカー選手権がグループCによる世界耐久選手権へと移行。ランチアの主戦の座はLC1/LC2へと移っていきました。

 一方、ラリーフィールドではアバルトSE037を経てグループB規定のランチャ・ラリー037へと進化。ベータ・モンテカルロは短くも華やかな活動記録を残して現役を去ることになってしまいました。

 グループ5仕様のベータ・モンテカルロはマルティニ・レーシングの記念イベントで撮影したものですが、やはりマルティニ・カラーはレーシングカーを格好良く見せる天才画家。本来持っている格好良さが際立っていました。

 

“元祖”世界で最も美しい2ドアクーペBMW3.5CSL

 ヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)などのツーリングカーレースで活躍していたBMWも70年代後半のシルエットフォーミュラを戦った勇者の一人でした。

 彼らが最初に主戦マシンに選んだのは3.5CSL。76年の世界メーカー選手権を前に、75年に北米をラウンドするIMSAで活躍していた3.0CSLをベースにグループ5仕様が製作されています。

 IMSA仕様からのコンバートでは3.5リッター直6ツインカム24バルブのNAエンジンに加えて、3.2リッターターボエンジンも用意されていましたが、76年シーズンに3勝を挙げたのはすべてNA仕様。 3レースのみ出走したターボ仕様は、駆動系などのトラブルで全線でリタイアに終わっています。オーバーフェンダーなどカウルワークはIMSA仕様に比べて一回り大きく派手になりましたが、世界で最も美しい2ドアクーペと称賛されたボディは、相変わらず気高く美しいルックスを保っており、迫力を増したライバルと一線を画していました。

小兵だが予想外のパフォーマンスを発揮したBMW320

 シルエットフォーミュラによる世界メーカー選手権(WCM)の初年度を、3.5CSLで戦ったBMWでしたが、最大のライバル=ポルシェに対しては車両重量で大きなビハインドを背負っていました。そこで次なる一手として当初からシルエットフォーミュラを意識した車両を開発するとともに、それが完成するまでの繋ぎ役として320(初代3シリーズのE21型)をベースにしたシルエットフォーミュラを77年シーズンにデビューさせています。

 搭載されていたエンジンはF2で猛威を振るっていたM12/6がメインで、1.4リッターまでスケールダウンしてターボを組み合わせたもの、さらにはIMSA仕様の2リッターターボの3タイプが存在していました。そのうち主力となったのはやはりNA仕様でした。2.85リッターターボのポルシェ935には及びませんでしたが2リッター以下のクラス(Div.1)では無敵で、コースによってはプライベートのポルシェを喰うほどの勢いがありました。77年WCMのDvi.1では5勝を挙げ、2番手のフォード(F2用のコスワースBDAを搭載したエスコートが主戦)にトリプルスコアで王座に就いています。

 

生産が遅延しグループ5に参戦できなかった悲運のBMW・M1

 ショートリリーフながら2リッター以下のDiv.1では無敵の強さを誇った320に代わって、絶対本命となることが期待されたBMWの最終兵器がM1でした。

 それまでの3.5CSLや320が4座または5座の“乗用車”であったのに対して、こちらはエンジンをミッドシップに搭載して後輪を駆動する2シーターで、流麗なボディデザインはスポーツカー、いやスーパーカーと呼ぶに相応しいものでした。

 搭載されたエンジンは3.5CSLでも使用されていた3.5リッター直6ツインカム24バルブのM88型ユニットで、ロードゴーイングのベースモデルは277馬力、グループ4仕様は470馬力で世界メーカー選手権(WCM)用には排気量を3.2リッターに縮小してターボを装着、850馬力+αを捻り出す3種のスペックが用意されていました。

 ただし、ボディはイタル・デザインのジョルジェット・ジウジアーロ、シャシーはランボルギーニの開発部門を任されていたジャンパオロ・ダラーラと、それぞれ設計開発を担当。製作もイタル・デザインとランボルギーニで行われてMスポーツで開発供給するパワートレーンを搭載する“分業”のシステムが構築されていました。

 しかしというかやはりというか、ゲルマンとラテンのジョイントは計画通りにはいかず、78年からデリバリーされるはずだったM1が、グループ4のホモロゲーションに必要な台数を生産し終えたのは80年の暮にずれ込んでしまいました。

 結局、グループ5のシルエットフォーミュラ版は製作されることなく、グループ4のまま81年のデイトナ24時間にデビュー。GTOクラスでデビューウィンを飾っていますが総合優勝のポルシェ935には大きな差をつけられていました。さらに翌82年からはグループCへと世界選手権の主役が移行。最後までスポットライトを浴びることなくM1は現役を終えることになりました。

すべて表示
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
著者一覧 >

 

 

 

 

 

 

ranking

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

 

 

 

 

 

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

ranking

AMW SPECIAL CONTENTS