日野コンテッサを名車と呼ばずしてなんと呼ぶ! ミケロッティがデザインの斬新さが圧倒的 (1/2ページ)

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日野コンテッサを名車と呼ばずしてなんと呼ぶ! ミケロッティがデザインの斬新さが圧倒的

この記事をまとめると

  • 日野は第二次世界大戦が終わると小型乗用車の生産に乗り出した
  • 1953年にルノー4CVのノックダウン生産を開始
  • 1961年に自社オリジナルのコンテッサが登場

半世紀の時を経た現在でも十分に通用するスタイリング

 今ではトヨタグループの一員として、おもに大型のトラックやバス、そしてディーゼルエンジンのメーカーとなった日野自動車ですが、1960年代には小型乗用車も生産していました。それも他社以上に洗練されたスタイリングの乗用車でした。今回は、その日野自動車がオリジナル開発したコンテッサ・シリーズを振り返ってみます。

国内最大のライバルとなるいすゞとは同門関係の日野

 明治の末期から大正にかけてガス・電気器具を生産していた東京瓦斯電気工業、通称“瓦斯電(がすでん)”は、第一次世界大戦時には航空機用のエンジンも生産していました。大正の末期から昭和初期にかけては航空機や鉄道車両、そして自動車などを手掛けています。

 その自動車部と数社が合併して誕生したのが東京自動車工業(のちにヂーゼル自動車工業を経て現在のいすゞ自動車に)で、その特殊車両の生産を担当していた日野製造所が分離独立し誕生したのが、戦車などの軍需車輌の製造を行っていた日野重工業(現・日野自動車)でした。

 終戦直後から積載量10t(最大15t)と物資の大量輸送を可能にした大型のトレーラートラックや、より多くの人員……96名から最大250名までが乗車可能なトレーラーバスなどを開発・生産しました。東京都八王子市にある同社の企業博物館、日野オートプラザには、こんなトレーラートラックやトレーラーバスのスケールモデルも展示されています。

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日野のトレーラーバス画像はこちら

 こうして歴史を振り返ってみると、現在は国内で、大型トラックのトップ2となっているいすゞと日野ですが、じつは同門の関係にあったのです。ただし、いすゞが“瓦斯電”と合併した自動車工業株式会社へと連なる、1916年に設立された東京石川島造船所の自動車部をルーツと位置付けているのに対し、日野自動車では“瓦斯電”をルーツにしていました。

 日野オートプラザのエントランスには瓦斯電製で、経済産業省から「近代化産業遺産」の認定を受けたTGE-A型トラックのレプリカが展示されています。ちなみに、TGEは東京瓦斯電気工業(Tokyo Gas Electric Engineering Co.)のイニシャルを繋げたブランドでした。日野TGE-A型トラックのレプリカ画像はこちら

 そんな日野自動車は、第二次世界大戦が終わると小型乗用車の生産に乗り出します。ただしそれまで大型トラックや軍需車輌は数多く生産してきましたが、小型乗用車の生産に関してはまったくの白紙状態から始めることになったのです。

 そのために日野が選んだのは、ノウハウを持った海外メーカーから技術供与を受ける道でした。相手に選ばれたのはフランスのルノー公団。戦勝国とはいえ戦禍が酷かったフランスで、国の経済とルノー自身の復興を目指して国営化され“公団”を名乗っていました。しかし、乗用車の生産には長い歴史に裏打ちされた経験と実績があり、何よりも戦前から開発が進められていた小型車、ルノー4CVの存在も大きかったのだろうと考えられます。ルノー4CV画像はこちら

 ともかく、1953年に日野はルノー公団とライセンス生産の契約を結び、ルノー4CVのノックダウン生産から乗用車を始めることになったのです。日野製のルノー4CV、通称“日野ルノー”は、まだまだ非舗装路、というよりも悪路の多かった当時の日本の国情に合わせて、エンジンやサスペンションの強化・改良が続けられました。そして、国産部品の調達率(国産化率)も高められていき、生産開始から5年後の1958年には遂に完全国産化を達成したのです。ルノー4CV画像はこちら

 当時の道路事情に合わせて改良が続けられたこともあって、タクシー業界では“日野ルノー”は好評を博し、フランス本国で生産を終えたあとも1963年まで生産が続けられていました。

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