モータースポーツ用にチューニングが施された1台
2025年1月24日〜25日にRMサザビーズがアメリカ・アリゾナで開催したオークションにおいて、アウディ「スポーツ クワトロ」が出品されました。最初のオーナーは北米アウディクラブの創設者フランク・ベダー・ジュニア氏だったというヒストリーをもつ個体でした。
エンジンは2.1リッターの直5を搭載
1980年3月、ジュネーブ・ショーでアウディから1台の端正なクーペスタイルを持つ新型車が発表された。のちにアウディの名前を世界に轟かせる原動力となる「クワトロ」がそれだ。クワトロとはアウディが採用した4WDシステムに由来する車名で、のちに多くのモデルにこのクワトロ・システムが採用されたことから、あえて「オリジナル・クワトロ」の名前で呼ばれることも多い。
クワトロに搭載されたエンジンは、当時の「200」シリーズから継承した2.1Lの直列5気筒DOHCターボ。最高出力は200psを発揮し、1983年には内外装やエンジンのスペックにも及ぶマイナーチェンジも実施されている。ちなみにアメリカ市場では、そのマイナーチェンジ以前のモデルの販売が行われたのみで、1986年には早くもその新車販売は中止されている。だがアウディというブランドに人気がなかったわけではない。アウディはこの頃からスポーティでインテリジェントなブランド・イメージをアメリカにおいても十分に作り上げていた。その原動力となったのは、もちろんモータースポーツにこそあった。
WRCでは1981年から圧倒的な速さを見せつけた
クワトロの誕生に前後して、アウディはモータースポーツ部門のアウディ・スポーツを設立。目標としたのは当時グループ4の規定で世界選手権が競われていたWRC(世界ラリー選手権)への参戦で、当時WRCでは4WD車の参戦は禁止されていたが、アウディはFIAとの交渉によってその制限を解放。見事にクワトロをWRCの舞台へと導くことに成功したのだ。
じっさいにWRCに参戦したクワトロは、搭載される5気筒ターボエンジンを310psにまでチューニングしていたとされ、エントリー初年となる1981年から圧倒的な速さを見せつけた。さらに1982年には330psエンジンを搭載し、さらに15kgを軽量化したモデルを投入し、メイクス・チャンピオンシップを獲得。その勢いは1983年にも続き、この年の途中からはグループB規定の「クワトロA1」も登場。ハンヌ・ミッコラがドライバーズ・チャンピオンシップを獲得した。もはやWRCで勝利するには4WDのシステムは必要不可欠な存在であることを、アウディは証明してみせたのだ。




























































































































































































