モーテルのパキスタン人は荒川区で働いていた経験あり
すべてが終わった。あとはミネアポリス空港のハーツ・レンタカーのオフィスにクルマを返し、町をぶらつくだけだ。明後日、ぼくはデルタ航空機の直行便で日本に帰る。文字通り燃え尽きたような気持ちだった。
今日の宿はどこにしようか、と思っていたら、ロードサイドに古いBBQレストランの看板が現れた。これは夕食によさそうだ。通りがかりの小さい町である。すると、今度は都合よくモーテルの看板が……。まだ時間は早いが、ここに泊まることにした。
モーテルの受け付けにいたのはインド系の女性(後でパキスタン人と判明)だった。ぼくが日本人とわかると、彼女の夫が以前、日本で働いていた、とまくし立てた。
「主人があなたと話をしたがると思う。きっと、喜ぶわ」
目の手術を受けたばかりで右目を大きな眼帯で覆った主人は、東京都荒川区にある工務店で働いていたときの思い出をしゃべりまくった。そして、当時、親切にしてくれた社長の娘と連絡を取りたい、と熱心に訴えるのだった。しかし、30年以上前の話である。工務店を検索しても該当する会社はない。当時20代だった娘も、もう60歳くらいなっているだろう。
「日本に帰って何かわかったら連絡しますよ」というと、「頼むよ。きっとだよ」と、ぼくの手を握った。
3週間、旅を支えてくれた相棒“キムさん”との別れ
翌日、ミネアポリス空港近くのホテルに向かった。ミネソタのモノトーンの景色の中を走っていると、なんとも言えない寂しさが込み上げてきた。何だろう、この寂しさは? そのとき、ぼくは“キムさん”に恋をしていることに気がついた。献身的に旅を支えてくれた“キムさん”は、最高の相棒であり恋人だった。明日の朝、ぼくたちは別れる。どちらが悪いわけでもない。でも、それが運命だ……。
翌朝、”キムさん”をハーツ・レンタカーのオフィスに返却した。
ぼくはそのまま電車でミネアポリスの町に出た。ミネアポリスはグレートプレーリーで収穫した小麦の集積地として栄えた町だ。今でも小麦粉関連の看板が誇らしげにそびえている。
ぼくは、半日、散歩を楽しんだ。町の真ん中にはミシシッピ川が静かに流れている。天気がいいので、うっかり薄着で来てしまったが、空気はひんやりと冷たい。その夜はホテルにあるステーキ・レストランで、ひとりで祝杯をあげることにした。無事に旅が終わったことに感謝、そして、また次の旅ができるように祈りを込めて。
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このミシシッピの旅で筆者が取材した内容を1冊にまとめた本が2025年3月13日に発売となった。アメリカンミュージックのレジェンドたちの逸話とともに各地を紹介しているフォトエッセイ、興味のある方はぜひチェックを。
>>>『アメリカ・ミシシッピリバー 音楽の源流を辿る旅』(産業編集センター)
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