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ボルボ・ミュージアム誕生に存在した“秘密の倉庫”!メーカー誕生の意外なる真実【クルマ昔噺】

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TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)

輸出を前提としたクルマ作りのターゲットはアメリカ市場

会社発足当時は、寒冷地スウェーデンの国情に合った丈夫で耐久力のあるクルマづくりを目指したのだろうが、その歴史を通じて輸出を前提としたクルマづくりが行われ、彼らが常に視野に入れていた市場はアメリカであった。このため、とくにデザインに関してはアメリカ志向が強い。

1935年に誕生した「PV36カリオカ」は、クライスラー・エアフローのデザインを踏襲したボルボ初の流線形スタイルであったし、残念ながら開館前の倉庫にはその姿がなかった「フィリップ」というコンセプトカーは、まさにアメリカ市場での販売を前提としたモデルだった。

日本でボルボがなじみ深いブランドになるのは、おそらく「アマゾン」と呼ばれたモデルからだろう。その後、遡って「PV544」などにもスポットが当たり、「安全」を代名詞とした140シリーズから240シリーズに進化したモデルが、日本でワゴンブームの火付け役となった。

2度目のスポーツカー生産は成功!イタリアのデザインを取り入れた

一連の歴史的ボルボを見てみると、やはり地味な印象を拭い去ることはできない。そのなかで異彩を放つのは、ボルボ史上唯一のスポーツカーとして販売された「P1900」だろう。1956年から1年間だけ販売されたこのクルマは、グラスファイバー製のボディにオープントップという、およそスウェーデンの国情には合いそうもないモデルだったが、完成度の低さと需要の低迷から生産中止になったという。

その後、多少なりともスポーツカーの雰囲気を持ったモデルが「P1800」である。当時はスポーツカーと呼べるほどの性能ではなかったことからそうは見なされなかったが、今ではボルボのスポーツカーとして認知されている。P1900と違いこちらは長命で、1960年から1973年まで生産された。1972年からは流麗なシューティングブレーク・ボディを持った「1800ES」が生産されている。

この当時からイタリアのカロッツェリアとの関係を持ったボルボは、その後もベルトーネとのつながりを深め、200シリーズのクーペに始まり、最終的には「780」というクルマにまで及んだ。

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  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 幼いころからクルマに興味を持ち、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾る。 大学在学中からレースに携わり、ノバエンジニアリングの見習いメカニックとして働き、現在はレジェンドドライバーとなった桑島正美選手を担当。同時にスーパーカーブーム前夜の並行輸入業者でフェラーリ、ランボルギーニなどのスーパーカーに触れる。新車のディーノ246GTやフェラーリ365GTC4、あるいはマセラティ・ギブリなどの試乗体験は大きな財産。その後渡独。ジャーナリスト活動はドイツ在留時代の1977年に、フランクフルトモーターショーの取材をしたのが始まり。1978年帰国。当初よりフリーランスのモータージャーナリストとして活動し、すでに45年の活動歴を持つ。著書に三栄書房、カースタイリング編集室刊「世界の自動車博物館」シリーズがある。 現在AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)及び自動車技術会のメンバーとして、雑誌、ネットメディアなどで執筆する傍ら、東京モーターショーガイドツアーなどで、一般向けの講習活動に従事する。このほか、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」で自動車関連出品の鑑定士としても活躍中である。また、ジャーナリスト活動の経験を活かし、安全運転マナーの向上を促進するため、株式会社ショーファーデプトを設立。主として事業者や特にマナーを重視する運転者に対する講習も行っている。
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