ローデムの雑誌広告と輸入車ビジネスの黎明期
モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。1970年代初頭、日本で輸入車という言葉はまだ珍しいものでした。 筆者が東京世田谷の販売店「ローデムコーポレーション」でアルバイトをしていた1972年、並行輸入が解禁になったことで当時としては夢のようなクルマ、フェラーリやシトロエン「SM」などに見て触れることができました。 やがて筆者は雑誌広告づくりにも携わりました。 今回は、輸入車ビジネスの黎明期を、当時の現場の空気とともに振り返ります。
新規立ち上げの自動車事業に学生アルバイトで入社
学生時代に輸入車の販売店でアルバイトをしていた経験は、以前にもお話ししたとおりである。そこで見たこともないような多くのクルマに接し、それをドライブできたことは、今に至るまで大きな財産となっている。
きっかけは、あまりに凄いクルマが沢山並んでいたため、当時の展示場(環8の世田谷区等々力にあった)へまさに自分を売り込みに出向き、「アルバイトとして雇わないか」と交渉したことだった。1972年の秋のことである。難色を示されるのは覚悟だったが、驚いたことに即採用となり、洗車係としてすぐに出勤することになった。もっとも当方は学生の身だったため、大学が引けてからの出勤であった。
その会社、ローデムコーポレーションは、本社が溜池にあり、元々はドイツから食品を輸入している会社だった。それが当時流行り始めていたゴルフの会員権売買で大儲けし、なかば税金対策として始めたのが自動車事業だった。つまり、まったくの新規事業である。とくに競合他社との接点はほぼ皆無であったはずだ。それでも筆者が入った頃は、ぽつぽつと周囲のショップへクルマを持っていったりしていた。
雑誌広告の出稿を開始したのは、1973年1月号から(と記憶している)。出向先はカーグラフィックである。筆者が入るまで、じつはクルマは売れていなかったらしい。ところが、入った矢先、突如売れ始めた。やはり広告の力だったのだろうか。ちなみに雑誌は”月号”よりもひと月早く発売される。つまり、1973年1月号が出たのは1972年12月のことであり、筆者が入った直後から広告宣伝を開始したことになる。
フェラーリの鍵を渡され専務のタバコを買いに行く
大阪からやってきた3人の若者たちが、いきなり3台まとめてクルマを買っていった。1台はディーノ「246GT」、もう1台はシトロエン SM。最後の1台は何であったかは忘れたが、会社はいきなり忙しくなった。売れたクルマの車検取得から、ナンバー取得まで、急にすることになったものだから、ただでさえ人手がなかったこともあって、クルマの免許を持っていた大学生の小僧にも仕事がまわってきたのである。
そのため、早々に洗車係から陸送の手伝いまでやることになった。今でも忘れないのは、当時、等々力に住んでいた専務(実質的には社長)が、自動車事業部長の勧めで宣伝にもなるからと、販売車両に乗っていたことだ。
ある朝、展示場にやってきた専務が、筆者に声をかけた。
「おい、たばこ買ってこい」
もちろん言われるままに徒歩で5分ほどの距離にあるタバコ屋に行くことになったのだが、驚いたことに
「これ、乗ってけ」
とポンと渡された鍵は、なんとその販売車両であったフェラーリ「365GT2+2」の鍵だったのである。これが生まれて初めてのフェラーリ体験となった。
もうひとつ忘れられないのは、陸送を任されるようになって、展示場から芝浦にあった工場まで車両を回送する仕事だ。あるとき持っていけといわれたのは、シトロエン SM。もちろん並行輸入の6灯式ヘッドライトを持ち、マニュアルミッションのモデルだった。
出掛けに専務が一言
「気をつけろよ!」
「何を?」
と質問すると
「ハンドル」
と返ってきた。そしてその理由は乗り出してすぐに判明した。車両を環8に左折で合流してすぐ、ステアリングが切れすぎていたために慌てて戻すと、今度は反対に切れ過ぎた。3回ほど繰り返して冷や汗をかいた。事前の知識なくこのクルマに乗るのは危険だと、このとき知った。
















































