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無敵のスカイラインGT-Rに食らいついた猛者も! 90年代に日本のレースで光を放った輸入車7選

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了,フォード,ボルボ,BMW

国内ツーリングカーレースで大暴れの輸入車

 ハコ車レースと言えばスポーツカーが集うSUPER GTが最初に思い浮かんできますが、1980~90年代のハコ車は文字通り箱型セダン系のツーリングカーでした。その国内最高峰は全日本ツーリングカー選手権でしたが85年から93年まではグループA車両、94年から98年にはクラスⅡ(正確にはFIAツーリングカー・クラスⅡ)車両、と参加車両が一変しています。

 前者はJTC、後者はJTCCと略称も違っています。いずれの選手権も最初は輸入車勢の方が優勢で、国産車勢はメーカーが開発を進め、やがて輸入車に追いつき追い越していった、という展開が共通していました。世界に名だたるいい日本車を作り上げつつあった日本のメーカーにとっては、まさに目標となっていたJTCとJTCC、2つの時代の全日本ツーリングカー選手権での競合輸入車たち、を紹介することにしましょう。

 

【フォード・シエラRS500】コスワースエンジンを搭載したエボリューション

 グループAによる全日本ツーリングカー選手権は、1990年からはスカイラインGT-Rが席巻することになりました。そのGT-Rに、最後まで食らいついていたのがフォード・シエラRS500。ベースモデルは欧州フォードが82年に発売した、後輪駆動の3ドアハッチバックでした。

 1.3ℓ~2.3ℓまで広範囲なエンジンを搭載していましたが、その派生モデルとしてコスワースが開発した2ℓのツインカム・ターボエンジンを搭載、85年に登場したシエラRSコスワースと、さらに最高出力を225馬力に引き上げ、空力パーツで武装したエボリューションモデルのシエラRS500が誕生しています。

 JTCには87年にデビューし6戦4勝を挙げてマニュファクチャラータイトルを獲得すると、翌88年も6戦4勝、89年には6戦2勝に留まりましたが3年連続でマニュファクチャラータイトルを連覇。87年には長坂尚樹、88年には横島久がドライバーチャンピオンに輝き二冠を達成。

 シリーズの檜舞台となった富士のインターテックでは87年から3年連続で、クラウス・ニーツビーツがドライブするRS500が優勝を飾っています。90年代にはいるとGT-Rの前に苦戦し姿を消しますが、デビュー初年度、黒いボディに赤いTEXACOのロゴが映えるワークスカー(エッゲンバーガー)の雄姿は今も語り継がれています。

【635CSi/BMW M3】ツーリングカーレースの世界王者として君臨

 古くからツーリングカーレースに参戦してきたBMWは、グループAに関しても始められた当初から積極的に関わってきました。528iに次ぐ第2弾は世界一美しいクーペと呼ばれた635でした。
 その先代の3.5CSLはグループ2によるヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)の時代に大活躍をして、あまりの強さにグループ2からグループAに(レースのカテゴリーが)移行した、とも評されるほどでしたが、後継の635CSiも負けず劣らずの活躍ぶりで、本格デビューとなった83年にはディエター・ケスターがドライバーチャンピオンに輝くとともに2500㏄を超えるクラスでのマニュファクチャラータイトルを獲得していました。

 そんな635CSiが日本にやってきたのはJTC初年度となった85年。開幕戦でいきなりポールを奪って速さを見せつけると、このレースこそアクシデントでリタイアとなりましたが第2~3戦で2連勝、初年度にチャンピオンを獲得しています。

 そんな635CSiは、モデルライフの関係から80年代終盤には現役引退をしてしまい、それと交代する格好で87年に登場したのがM3でした。

 当時のエントリーモデルだった3シリーズの2ドアをベースに、キャビンに手を加えてクーペ風のシルエットにコンバート。エンジンも同じく直4ながら2ℓから2.3ℓ、そして最終的にはクラス区分一杯となる2.5ℓへと排気量を拡大して戦闘力を高めていきました。

 国内ではメルセデス・ベンツ190E 2.3-16、海外ではさらにアルファ・ロメオGTV6といったライバルと激闘を繰り広げたこともありましたが、最終的にディビジョン2と呼ばれる排気量1601㏄~2500㏄クラスを、事実上のワンメイクとしてしまいました。

 

【ボルボ240ターボ】富士で速さを見せつけた空飛ぶレンガ

 グループAレースには、意外なクルマも姿を見せていました。輸入車で言えば、その最右翼はボルボ240でしょう。ボクシーな3ボックスで4ドア・シックスライトのセダン。一見すると速さを感じさせなかったのですが、いざレースになるとこれが馬鹿っ速い。フライング・ブリック、つまり空飛ぶレンガというニックネームも納得でした。

 240シリーズは1974年に発売が開始され、ベースモデルとなる240ターボも81年に誕生していましたが、グループAレースには84年度から本格参戦を開始。デビューイヤーで早くも優勝を飾ると85年、86年とヨーロッパ・ツーリングカー選手権を連覇。

 またJTCにも顔を見せ、スポット参戦となった85年、86年のインターTECではライバルを一蹴して2年連続優勝を飾っています。圧倒的なスピードで富士の長いホームストレートを駆け抜けて行く様は、国内のレース関係者やファンを驚かせるに十分な迫力がありました。

 

【ジャガーXJS-HE】たった一度の日本参戦で速さを見せつけたビッグキャット

 ドライバーとして、また引退後はチームオーナーとして、様々なツーリングカーレースで活躍した“ハコ”のスペシャリストとして知られるトム・ウォーキンショー。彼がまだ現役時代にドライブしていたツーリングカーが“ビッグキャット”の愛称で知られるジャガー。ツーリングカーというよりは高級グランツーリスモの範疇に入る2ドアサルーンのXJSに5.3ℓV12エンジンを搭載したXJS-HEをベースにしたグループAでした。

 ウォーキンショーが主宰するトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)では82年に主戦マシンを、それまでのマツダRX-7からジャガーXJS-HEに代えてヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)に参戦しています。翌83年にはジャガー・スポーツからのサポートが強化され事実上のワークスチームとなり、マシンの戦闘力も一層引き上げられました。

 そうして迎えた84年シーズン、TWRジャガーはシリーズ戦の総てでポールを奪い12戦7勝。1-2フィニッシュが4回あり、うち2回は1-2-3と表彰台を独占する速さと強さを見せつけ、4勝を挙げたウォーキンショーがチャンピオンに輝いています。

 国内のJTCには86年のインターTECに2カーエントリー。決勝はトラブルにより2台ともにリタイアとなりましたが、予選では初めて走る不利をものともせずポールを奪い、速さを見せつけることになりました。

 

【ローバー・ビテス】TWRのワークスマシンがフル参戦 

 ジャガーと同じくTWRで車両のメンテナンスと、レーシングチームのオーガナイズをしていたのがローバー・ビテスです。76年に登場したハッチバック付き4ドアセダンのローバーSD1が、82年のマイナーチェンジで3.5ℓV8エンジンをインジェクション仕様としたローバー・ビテスとなる誕生の経緯があります。

 グループA仕様に仕立てられたビテスは、ヨーロッパで83年シーズンにデビューを果たし、85年と86年には、それまでのジャガーに代えてTWRの主戦マシンになっています。この間ETCでは惜しくもタイトルには手が届きませんでしたが、85年に5勝、86年には6勝を挙げる活躍を見せています。

 ジャガーやボルボは日本国内では年に一度、インターTECのみへの参戦でしたが、TWRのワークスカーを購入したスンダイスピリットが86年のインターTECから投入し翌87年シーズンにはフル参戦。優勝には手が届きませんでしたがV8サウンドはとても印象的でした。

 

【BMW318】激戦のJTCCで2年連続チームタイトルを獲得

 グループAによる全日本ツーリングカー選手権が1993年限りで終焉を迎え、翌94年からはクラスⅡによるシリーズへと変更、JTCからJTCCに移行することになりました。

 91年からクラスⅡのレースを始めていた英国ツーリングカー選手権(BTCC)にはトヨタのカリーナE(日本名:コロナ)や日産のプリメーラなどが参戦していたことで、JTCCが始まった当初から国産車の活躍も目立っていました。

 しかし、ベンチマークとなったのはBMWでした。この新たに始まった選手権シリーズに、日本の自動車市場拡大のイメージアップを全面に押し出してきたBMWは、ワークス待遇のシュニッツーァー・チームとワークスマシンを送り込んできました。それが4ドアセダンの318i。その車名とは裏腹に、エンジンは2ℓ直4で公称300馬力のハイパワーを誇っていました。

 またコンベンショナルな後輪駆動も大きな武器になりました。94年のJTCCではスティーブ・ソパーが5勝を挙げてシリーズ3位につけ、チーム部門ではシュニッツァーがタイトルを獲得。翌95年には都合4勝を飾り、3勝を挙げたソパーがドライバーチャンピオンに輝くとともに、シュニッツァーがチーム部門を連覇。見事な二冠を獲得して有終の美を飾り、これでJTCCの活動を休止しました。

 

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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