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撤退が謎なほど名車しかない! 「いすゞ」が送り出した乗用車6選

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田了,Auto Messe Web編集部

老舗自動車メーカー 走る走るいすゞの乗用車

「…走れ走れISUZUのトラック♪」のCMソングでも知られるように、近年はトラックやバスの専業メーカーとして営業を続けるいすゞ自動車(ISUZU)ですが、かつては乗用車メーカー、それもトヨタや日産と並ぶ乗用車メーカーの“御三家”として知られる存在でした。

 創業は1916年。一世紀を超える老舗企業でもあります。ちなみに欧文ではISUZUと表記しますが正式な社名はいすゞ自動車。伊勢神宮の境内を流れる五十鈴川(いすずがわ)に由来しています。その生い立ちを紹介していくと、それだけで1冊の書籍が出来上がるほど。そのいすゞがリリースした乗用車の中で忘れられない名車を紹介することにしましょう。

 

【いすゞ ヒルマン・ミンクス】ノックダウンから純国産化で自動車の技術を蓄積

 いすゞは戦前の1921年に英国のウーズレー社と提携してA9型乗用車をノックダウン生産(技術援助協定を結び日本の現地で製造し組み立てること)し、以後もいくつかの乗用車を試作、あるいは少量生産してきました。そして事実上、いすゞにとって初となる乗用車の量産は、53年に登場したいすゞ ヒルマン・ミンクスからでした。

 その名から分かるように、ヒルマン・ミンクスの製造技術を持つ英・ルーツ社と提携し、ノックダウンによって生産が開始されています。ヒルマン・ミンクスは56年の秋に、本国の後を追ってのフルモデルチェンジを経てPH10型からPH100型に移行し、57年には完全国産化がなされています。

 ともに3ボックスの4ドアセダンでPH10型のエンジンはサイドバルブ(SV)の1.3L直4からプッシュロッド(OHV)の1.4L直4に進化。PH100型ではOHVの1.5L直4エンジンを搭載。個人的には中学校時代の美術の先生がPH100型を愛用していて、怖~い先生とお洒落なミンクスのギャップが印象的でした。

 

【いすゞ ベレル】いすゞ初の、記念すべき完全オリジナルの乗用車

 ヒルマン・ミンクスのノックダウン生産から完全国産化を通じて技術を磨きノウハウを蓄積してきたいすゞにとって、初めてのオリジナルモデルは1962年に発売されたベレルです。

 因みにベレルのネーミングはいすゞ(五十鈴)の鈴=ベルと、ローマ数字で50を表すⅬ=エルを組み合わせた造語。ヒルマン・ミンクスの後継として1.5L仕様もありましたが、いすゞのフラッグシップとすべく2L直4が主流で、いすゞお得意のディーゼルも用意されていました。正確に言うなら2L直4のディーゼル・エンジンをベースにガソリン・エンジンが開発され、83㎜×92㎜のボア・ストロークは同じで、なんとシリンダーブロックも共用でした。

 デビュー直後にライバル社のトヨタ・クラウンとプリンス・グロリアがフルモデルチェンジで2代目に移行、セドリックも大掛かりなビッグチェンジを行うなどしてきたなかでの、厳しい船出となったベレルは、何度かマイナーチェンジを繰り返したのち、僅か5年の短いモデルライフを終えています。

 

【いすゞ ベレット】ベレルの弟分は程なくいすゞのメインモデルに

 1962年に登場したベレルに続いて、翌63年には弟分のベレットがデビューしています。

 ネーミングの由来は、例えばアルファ・ロメオでジュリアの妹分がジュリエッタであるように、またイタリア語でセダンを表すベルリナに対してより小さなクーペをベルリネッタと呼ぶように、ベレルの弟分を示す造語です。それにしてもベレルといいベレットといい、当時のいすゞのネーミングは、とってもお洒落でした。

 ベレルの1年後にデビューしたベレットですが、開発段階からベレルと並行して進められていました。そして1.5ℓの4ドアセダンであるベレットが、ヒルマン・ミンクスの後継の本命となったのです。

 エンジンはプッシュロッドの1.5L直4と1.8L直4のディーゼルで、半年後には1.6L、1年後には1.3Lと新エンジンが追加されています。ボディは3サイズともにヒルマン・ミンクスより僅かに小さく、また車重も100㎏程軽く仕上がっていたために、パフォーマンスは充分でした。

 特に半年後に追加された1.6L仕様は、国内で初めて“GT”を名乗ったベレット1600GTで、イメージリーダーとしてシリーズを牽引することになりました。その後は1600GTファストバックやツインカムエンジンを搭載した1600GTR、さらに1970年には1800GTも登場しています。

 

【いすゞ フローリアン】半年のインターバルを経て登場したベレルの後継

 ベレルの生産が終了した1967年5月から、いすゞの乗用車はベレットが1モデルのみという状態が半年ほど続きましたが、同年の11月に、ベレルの後継モデルと位置付けられるフローリアンが登場します。前年、66年春のジュネーブショーで、カロッツェリア・ギアのスタンドに117スポーツと並んで参考展示されていたプロトタイプ、いすゞ117サルーンの市販モデル、それがフローリアンでした。

 フローリアンという車名はオーストリア皇帝の愛馬に因んだものとされています。そもそもが同名の117クーペとフロアパンを共有するフローリアンですが、最も特徴的だったのはリアドアの後方にもう1枚のウィンドウを持つ6ライト・デザインでした。

 最近ではトヨタ(LEXUSも含めて)や日産、ホンダなどからも、このデザインを採用するクルマが続々登場、ポピュラーになってきましたが、当時としてはとても斬新なデザインでした。ベレットの1600GTと基本共通なエンジンは、66年9月のマイナーチェンジでベレット同様OHCヘッドに載せ替えられ、また70年には1.8L仕様も登場しています。

 83年に生産を終えるまでモデルライフは16年と長かったのですが、いすゞの多くのモデルと同様、このフローリアンも一代年寄ならぬ1代モデル。

 83年4月に登場したアスカに後を託して引退することになりました。

 

【いすゞ 117クーペ】イタリアン・ルックを纏ったグラン・ツーリスモ

 フローリアンの前身である117サルーンと同様に、1966年のジュネーブショーに参考出品されていたいすゞ117スポーツの市販モデルが117クーペ。開発を担当したカロッツェリア・ギアの開発ナンバーがそのまま正式に車名とされたものです。

 1600㏄と比較的小排気量ながら、世界に冠たるグランツーリスモとして企画され、特に初期モデルではボディの多くの部分がハンドクラフトで仕上げられていて、工業製品というよりも工芸品と呼ぶレベルにありました。

 エンジンは、フローリアンやベレットで使用されている1.6ℓのユニットにツインカムヘッドを組みつけたG180WE型を搭載していました。フローリアンの項でも触れましたが、両車のフロアパンは共通で、ダブルウィッシュボーン/リーフ・リジッドとコンベンショナルなサスペンションも基本的には共通でしたが、117クーペはエンジンがパワーアップされていたのに合わせてトルクロッドなどを追加し、強化されていました。

 77年には2度目のマイナーチェンジを受け角形4灯式ヘッドライトを採用するなどお色直しされていますが、やはりいすゞの多くのモデルと同様、117クーペも1代モデル。

 81年には後継となるピアッツァが登場しています。

 

 

【いすゞ ジェミニ】GMのグローバルカー構想で誕生するも2代目以降は時代に翻弄

 1973年一杯で生産を終了したベレットに代わるいすゞの主力モデルが74年に登場したジェミニです。

 当時、いすゞはビッグ3のひとつGMと提携していましたが、そのGMが掲げたグルーバルカー(世界戦略車)構想に則って、やはりGMと提携していたオペルのカデットをベースに開発された“双子車”でした。もちろん車名のジェミニ(=英語で星座のふたご座の意)もそれに因んでいます。

 エンジンはいすゞのオリジナルで、当初は1.6L直4OHCのG180型ユニットが使用されていました。一方、オペルのカデットをベースにしていたボディですが、先代モデルとされるベレットに比べると一回り以上も大きく、国内で見るとカローラやサニーのクラスからコロナやブルーバードのクラスに昇格していました。

 それでも車重は900kg台前半で、定評のあったパフォーマンスには何の蔭りも見られませんでした。前後サスペンションはダブルウィッシュボーン/コイル+3リンクリジッドとコンベンショナルで、ベレットでスイングアクスルの癖に悩まされた反省が窺えました。

 ジェミニはいすゞのモデルには珍しく、5世代まで代を重ねていましたが、前輪駆動に生まれ変わった2代目と3代目を経て、4代目と5代目はホンダからOEM供給されたドマーニとなるなど、26年のモデルライフは波乱万丈となってしまいました。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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