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童夢が開発した「ハヤシ712」が関東「ファルコン」勢から覇権を奪取! ドライバーは中野信治選手の父・中野常治選手でした

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 鉄谷康博/原田 了

プロトタイプから現場で手直しを続け“ハヤシ・マジック”が実現

 それまでハヤシカーショップ/ハヤシレーシングではマシンの開発を内製で進めてきました。そのため712で初めて外部(とはいっても童夢には林 将一さんも関わっていたのですが)に委託することになったのですが、もうひとつ体制変更というか、体制強化されたニュースがありました。

 これまでのレーシングカーがすべて、東大阪にあるハヤシカーショップのワークショップで製作されていたのに対して、712以降は鈴鹿サーキットに程近いエリアに新設されたハヤシレーシングの新たなワークショップ(というよりもファクトリーと呼ぶにふさわしいスペースが確保されたモダンなガレージでした)で製作されるようになったこと。

 鈴鹿サーキットでは至近距離の好立地だったことから設計変更したマシンをサーキットでテストし、ワークショップに戻ってテスト結果を分析し、さらに改良を加える。この繰り返しが簡単に実践できたことは大きかったようです。

 これを繰り返しながら、712はプロトタイプから量販モデルへと進化していきます。こうしたバックグラウンドの状況を説明したうえで、712のメカニズムについて紹介しておきましょう。ハヤシ712は、3/4モノコックの後方に、エンジンを搭載するためにパイプでサブフレームを組んだハイブリッドシャシーです。

 これだけ見ると、従来のモデルと同じようなシャシーをイメージするかもしれませんが、モノコックが、アルミパネルを使ったツインチューブではなく、アルミ箔で成形したハニカムをアルミパネルでサンドイッチ構造とした、アルミのハニカムパネルによるモノコックを採用。

 プロトタイプで苦労したことへの反省から、ハニカムパネルのアウターにアルミの補強パネルを追加しており、シャシー剛性は十分すぎるほどに高まっていました。サスペンション形式は前後ともにダブルウィッシュボーン式でした。

 フロントはハヤシのFLとしては初めてロッキングアームを使ったインボード式で、ダンパーにはオリジナルで開発した『ストリートショック』を使用していました。またカウルワークとしてはスポーツカーノーズにワイドなサイドポンツーン、などはファルコン77Aと似たコンセプトでしたが、サイドポンツーンの後半から垂直に立ち上げたサイドウォールでリヤウイングをマウントする、新たなコンセプトでまとめられています。林 将一さんも「712は2秒のタイムアップを狙って開発されたマシンで、開発するのに時間はかかるけれど、開発が進めばきっと速くなると信じていた」と話していました。

 1977年シーズンから速さを見せつけていたファルコン77Aは、1978年シーズンには鈴鹿で飯田選手がチャンピオンに輝き“ファルコン・ショック”を巻き起こしたことは先に触れたとおり。これに対応すべく投入されたハヤシ712は当初、苦戦することになりましたが改良を重ね、1978年シーズン中盤にはライバルを上まわるポテンシャルを発揮。

 9月のグレート20レースと11月のJAF鈴鹿グランプリ、シーズン終盤の2戦では中本憲吾選手が圧倒的な速さでFL500チャンピオンレースを2連勝。チャンピオンこそ飯田選手に奪われてしまいましたが、中本選手は2戦連続してポールtoウィンを飾るとともに、鈴鹿グランプリでは従来のコースレコードを1秒以上も更新するスーパーラップでニューレコードをマークしています。

 優勝請負人としてハヤシに請われた中本選手ですが、最初の2レースでは完敗を喫していました。しかしグレード20では堂々の変身ぶりを見せつけて、パドックでは“ハヤシ・マジック”なるフレーズが生まれることになりました。

 そして翌1979年には、中本選手に代わってハヤシレーシングのワークスドライバーに抜擢された中野常治選手(F1GPやCARTで活躍した中野信治選手の父)が、見事に鈴鹿チャンピオンとなりファルコンから覇権を奪還することになりました。販売台数も32台を数えています。

 ただし、この話にはさらに新たな展開が待っていました。関西/鈴鹿勢のハヤシに、完膚なきまでに敗れてしまったRSワタナベ(ファルコン)が再度の逆転劇を狙って新型車両、ファルコン80Aを投入することになったのです。

 77Aで空力のひとつの完成形を導き出したファルコンが、また新たなトライを実践してきたのですが、その設計開発思想、そして攻守所を変えたバトルについては次回に続きます。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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