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ダットサン「フェアレディ」が第1回日本グランプリで欧州勢を抑えて優勝! ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が名前の由来でした【国産名車グラフィティ】

ダットサン「フェアレディ」が第1回日本グランプリで欧州勢を抑えて優勝! ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が名前の由来でした【国産名車グラフィティ】

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TEXT: 片岡英明  PHOTO: 佐藤靖彦/増田貴広

硬派なオープン2シーターが実現した国産車初の時速200キロ超

トラックのシャシーに860ccのエンジンを搭載した、わずか20台だけ生産された小さなオープンカー。その登場から約10年で、後に国産車として初めて200km/h超の世界を実現するスポーツカーが発表された。それが日産「ダットサン・フェアレディ」だ。日本国内に限らず海外の多くの人々からも、今なお愛され続けているクルマだ。

Zの生みの親「ミスターK」が企画したお洒落な2シーターオープンカー

日産のフェアレディは、世界に誇るべき量産スポーツカーである。すでに誕生から60年を超える長い時間が経過しているが、いつの時代も世界各国のスポーツカーに大きな影響を与えてきた。その歴史を遡ると、1952年1月に登場した「ダットサン・スポーツ」に行き着く。「フェアレディZ」の生みの親でもある片山 豊が企画し、戦前にオオタのロードスターなどを手がけた太田祐一が作り上げたクルマだ。

メカニカルパーツの多くは戦前のダットサンのものを流用し、トラック用シャシーに新型乗用車(DC‒2型)のパワーユニットを搭載している。そのため型式はDC‒3となった。「MG-TD」風のオシャレなオープンボディをデザインしたのは太田祐一だ。クラムシェルフェンダーを備え、コンパクトなキャビンには4人が乗ることができた。

パワーユニットは860ccの直列4気筒サイドバルブで、最高出力20ps/3600rpm、最大トルク4.9kgm/2000rpmを発生した。シンクロ機構を持たない3速MTを組み合わせ、70km/hを超える最高速度を記録したと伝えられている。サスペンションは、前後とも横置きリーフスプリングのリジッドアクスルだ。

最初はショーカーだったが、好評だったため約20台を製作し、発売した。日本車で初めて「スポーツ」を名乗ったダットサン・スポーツDC‒3は、ダットサン・フェアレディのご先祖様と言えるだろう。

1958年秋に開催された第5回全日本自動車ショーに、日産は4人乗りのスポーツカー「ダットサン・スポーツS211」を参考出品した。210型ダットサン・セダンのラダーフレームを用い、その上に日東紡製のFRP(グラスファイバー強化プラスチック)ボディを被せている。988ccのC型直列4気筒OHVを積み、1959年6月に発売された。

じつは、その3カ月前にアメリカに渡り、ロサンゼルス輸入車ショーに出品していた。彼の地でも評判がよかったため、左ハンドル車の開発を開始。1960年1月、鋼板ボディのSPL212として登場する。型式内の「L」は「LEFT HAND DRIVE」つまり左ハンドル車を表す。エンジンはブルーバード310型から譲り受けたE型1189cc4気筒OHVを搭載し、48ps/4800rpmまでパワーアップした。

このSPL212で初めて「フェアレデー」とネーミング。名付け親は当時の川又克二社長だ。ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』をブロードウェイで観て感激し、命名したと言われている。発売して早々に表記を「フェアレディ」と変更し、秋に最終型のSPL213に発展させた。このときE型エンジンをパワーアップし、ブレーキも強化する。

これに続く第2世代は、1961年秋の第8回全日本自動車ショーに出展された「フェアレディ1500」(SP310)。翌年10月に正式発売されている。華麗なSP/SRの舞台が、ついに幕を開けたのである。

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