デ・トマソのFIA世界スポーツカー選手権戦略モデル
モントレー・カーウィーク2025のRMサザビーズ・オークションに、デ・トマソ創成期の幻ともいえる「スポルト5000スパイダー」が登場しました。FIA世界スポーツカー選手権参戦を視野に開発されたこのワンオフモデルは、P70と並ぶ存在として知られる特別な1台です。レースキャリアはわずか1戦に終わったものの、オリジナル性の高さと希少性は群を抜き、今なお愛好家を魅了し続けています。今回の競売でどのような評価を受けたのか、その歴史とオークション結果を振り返ります。
諸行無常な敏腕ビジネスマン”アレハンドロ”の草創期
第二次世界大戦後、雨後の筍のように生まれては消えていった小規模自動車メーカーのなかでも、「デ・トマソ・アウトモービリ」社ほどミステリアスで国際色豊かな背景を持つメーカーは、ほとんど存在しなかった。
同社創業者にして、のちに辣腕・剛腕のビジネスマンとして知られることになるアレハンドロ・デ・トマソは、政治的に活発なアルゼンチンの裕福な家庭に生まれたが、1955年に当時の独裁者フアン・ペロン大統領を転覆させようとする陰謀に関与したという嫌疑を受け、イタリアに逃れた。このとき、アルゼンチンで列車強盗事件を引き起こしたという都市伝説的な噂もあるようだが、どうやらアレハンドロ自身もその噂についてはジョークとして語っていた。
イタリアに渡った後、エンジニア兼アマチュア・レーシングドライバーとして活躍の場を得たアレハンドロは、2回のフォーミュラ1GPレース、4回のセブリング12時間レースに出場し、1958年のル・マン24時間レースでは「O.S.C.A.」ワークスチームの一員として750cc以下のスポーツカークラスで優勝し、総合10位を獲得した。
1957年には、ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントの孫娘であるアメリカ人の相続人イザベル・ハスケルと結婚し、当時のヨーロッパにおけるモータースポーツ革新の中心地であった「モーターヴァレー」モデナに定住。そこでデ・トマソは、1960年代初頭からフォーミュラ・ジュニアやスポーツカーレース用車両の製造を開始し、1963年に初のロードカーである「ヴァレルンガ」を発売する。
フォード「コルティナ」用の「ケント」エンジンを搭載し、プレス鋼のバックボーンシャシーとチューブラーリアサブフレームを組み合わせた、このレーシングベルリネッタは、フォーミュラマシン同様にエンジンを応力メンバーとして採用した先進的な設計により、軽量クーペながら、かなりのねじれ剛性と安定性を実現した。
そして、ヴァレルンガで一定の成功を得たことに自信をつけたデ・トマソは、次なる野心的なプロジェクトに着手する。それが1965年に製作されたP70である。




































































































































































