クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • ランボルギーニ「イオタ」はミウラにあらず! ボブ ウォレスが明かしたJの真実【ミウラ生誕60周年_12】
CLASSIC
share:

ランボルギーニ「イオタ」はミウラにあらず! ボブ ウォレスが明かしたJの真実【ミウラ生誕60周年_12】

投稿日:

TEXT: 山崎元裕(YAMAZAKI Motohiro)  PHOTO: Automobili Lamborghini S.p.A.  FACT CHECK: 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)

  • ランボルギーニ ウラッコ:若かりし頃のボブ・ウォレス。勤務時間外に作られたワンオフを生み出した男だ
  • ランボルギーニ J:ミウラとの共通外板はルーフのみ。専用設計された真紅のボディ
  • ランボルギーニ J:固定式ライトや大型カナードを備え、精悍さを増したフロントマスク
  • ランボルギーニ J:当時撮影された写真は極めて少ない

ミウラとは別物の独自フレームとV12が生んだ「幻のイオタ」を開発ドライバー本人が明かす!

現在にまで続くランボルギーニのヒストリーのなかで、もっともミステリアスな存在として語られるモデルがランボルギーニ「J(イオタ)」です。稀代のテストドライバー、ボブ・ウォレスが勤務時間外に製作したワンオフモデルは、なぜランボルギーニ「ミウラ」とは別物と言い切れるのでしょうか。その名の由来と、激しい炎上で幕を閉じた短い生涯の真実をレポートします。

伝説のワンオフモデル、ランボルギーニ「イオタ」誕生の裏側と謎多い実像をボブ・ウォレスが語る!

現在にまで続くランボルギーニのヒストリーのなかで、もっともミステリアスな存在として語られるモデルが、ここで紹介するランボルギーニ「J(イオタ)」だ。それは1964年にランボルギーニに入社した、優秀なテストドライバーであり、またメカニックでもあったニュージーランド出身のボブ・ウォレスが、1969年から翌1970年にかけて通常の勤務時間外に開発、そして製作したワンオフモデルである。

もちろんその製作にあたっては、社内のさまざまな人物が協力することになるのだが、社長であるフェルッチオ・ランボルギーニは、それを正式なプロジェクトとしては認めなかった。通常の勤務時間外に「J」が製作された直接の理由はここにあった。

筆者は今から20年以上も前の2005年、この「J」の生みの親であるウォレスを、アメリカのアリゾナ州フェニックスに訪ねたことがある。1974年にプライベートな理由からランボルギーニを退社し、一時故郷であるニュージーランドに戻ったのち、フェニックスという新天地でランボルギーニやフェラーリなどの整備を行う、自らのガレージを設立したウォレス。今回はこのときのインタビューで彼自身が語った内容をもとに、「J」の実像へと迫ってみたいと思う。

ウォレスが全否定した「ミウラベース説」の真相と、軽量・空力を追求したイオタ独自メカニズムとは!?

ウォレスが「J」を製作、そしてさまざまなテストにそれを供している間、このワンオフモデルには特別な名前は掲げられていなかった。ウォレスはそれを「マイ カー」と呼び、社内の人間は「ボブのクルマ」、あるいは「ボブのトーイ」と称していたという。

一般論としてはランボルギーニ「ミウラ」をベースとするワンオフモデルと解説されることも多い「J」だが、ウォレスはまずそれを完全に否定した。なぜなら「J」に使用されるフレームは、「ミウラ」のそれとは完全にデザインが異なるものであり、センターセクションの素材もスチールからより軽量で強度に優れたクロームモリブデン鋼に変わったからだ。左右のワイドなサイドシルのなかにはフューエルタンクがビルトインされ、走行中に燃料を使ったことによるフロントの重量変化を最小限に抑えるようになった。

ボディデザインは、確かに「ミウラ」のシルエットを受け継ぐものだが、ウォレスによれば実際に「J」と「ミウラ」のボディパネルで共通するものはルーフのみであったという。実際に現在では数点が残るのみの当時の写真を確認してみても、さらに空力特性を高めるために「J」には独自のディテールが与えられていることが分かる。

フロントセクションではヘッドランプがプレクシグラスのカバーを持つ固定式に改められたほか、ボンネット上のエアアウトレットも新たなデザインになった。フロントフェンダーからグリル下へと回り込んで装着されるカナードも、「J」のフロントマスクに精悍な印象を与える大きな要素となっている。フロントフェンダーにはブレーキ冷却の役割を終えたあとのエアを排出するためのエアアウトレットも備えられた。

ドライサンプ化と402psのV12! ランボルギーニ「ミウラSV」へ与えた影響

ミッドに横置き搭載されたエンジンは、「ミウラ」のそれと同様に3929ccの排気量が設定されたV型12気筒DOHCだが、これもまたピストンやカムシャフトなどは「J」のためのスペシャルであり、さらに潤滑方式もドライサンプに改められている。注目の最高出力はランボルギーニのオフィシャルデータでは440psと発表されているが、ウォレス自身はインタビューのなかで402psという数字を語った。

組み合わせられたミッションはクロスレシオを設定した自社製の5速MTで、デファレンシャルにはZF製LSDも採用されるなど、それは前後のサスペンションのデザインやセッティングなどとともに、のちのランボルギーニ「ミウラSV(P400)」の誕生にも大きな影響を与えている。参考までに「J」の車重は最終的には900kgという数字を達成していたという。

ドライサンプ化とクロスレシオMTを搭載し402馬力、ミウラSVの礎となった「J」驚異のメカニズム

この「ボブのクルマ」に、当時のFIAが定めるプロトタイプクラスの車両規定、「アペンディックスJ」に由来する「J(イオタ)」の名が与えられ、カスタマーへと販売することをフェルッチオから指示されたのは突然のことだった。ちなみに、アルファベットの「J」は本来のイタリア語には存在しない文字であるため、ギリシャ文字に当てはめて「イオタ」と発音されるようになったといわれている。

新たに「4683(諸説あり)」のシャシーナンバーが打刻され、1970年の10月にそのデリバリーを受けたカスタマーは、ミラノでランボルギーニなどの新車販売ディーラーを営んでいたジェリーノ・ジェリーニである。ちなみに彼の名はすでにこの連載でも一度登場しているので記憶されている方も多いかもしれない。それは「ミウラ」のファーストモデルであるランボルギーニ「ミウラ(P400)」の第1号車を手に入れた人物であり、さらに時間をさかのぼるのならば、あのスクーデリア フェラーリでテストドライバーを務めていたキャリアも持つなど、まさにスパルタンの極致ともいえる「J」を操るカスタマーとしては最適な選択だったともいえる。

だが「J」はそれから、彼のもとを離れて数人のオーナーの手を経たのち、1971年4月28日にブレシア近郊のまだ開通前のアウトストラーダを走行中にロールオーバークラッシュを起こす。車体は激しく炎上し、「J」の短い生涯はここで終わりを迎えることになったのだ。次回はこの「J」の存在を知ったカスタマーが次々にランボルギーニへと製作を依頼した、いわゆるイオタ レプリカについての解説をすることにしよう。

>>>過去のミウラ伝説を読む

すべて表示
  • 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)
  • 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)
  • 1960 年生まれ 大学卒業後ベストカーガイド編集部勤務。1990年オートスポーツ誌に転職、1992年F1速報誌(アズエフ)編集長。1995年月刊ビデオマガジン編集部に転職、1996年ベストモータリング編集長(のち局長兼務)。2005年ネコパブリッシング・イベント本部長/4輪編集局長兼務。2015年交通タイムス社に転籍、2020年より現職(総編集局長)自動車の分野に問わずオールマイティだが、特に旧いモータースポーツとクラシックカーに造詣が深い。愛車は1969年DATSUN Fairlady SRL311/YAMAHA RD250ほか

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS