テスラとは異なるアプローチで人間に寄り添うBYDの最新EVに驚く
レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之が毎週発信しているのが、人気連載コラムの「Key’s note」だ。今回のテーマは、中国を代表する自動車メーカーが放つ最新EV(電気自動車)、BYD「シーライオン7」の試乗記となる。最新スペックや自動運転技術に目を奪われがちだが、実際にステアリングを握って気がついたのは、かつての日本車が得意としていた「気遣い」の文化だった。未来を見据えながらも人間の感覚に寄り添う、中国製EVの意外な真価に迫る。
圧倒的なスペックではなく人間の感覚を置き去りにしない設計思想を体感する
BYD「シーライオン7」をドライブして、その意外性に大きく驚かされた。
BYDは中国を代表する自動車メーカーである。本国では絶大な人気を誇り、いまや世界各地で販売網を広げている。その勢いは凄まじく、既存の自動車メーカーにとって、本当に警戒すべき相手はテスラではなくBYDなのではないかと思わせるほどだ。
もともとBYDのルーツはバッテリー事業にある。そのため電動化技術に強みを持ち、EVとしての性能に不足を感じる場面はほとんどない。航続距離も十分で、充電性能も高い。走行性能も世界水準に達している。
だが、今回の試乗で僕が感心したのは、そうしたスペックの話ではなかった。むしろ驚いたのは、そのクルマづくりの思想だったのだ。こう言うと少々語弊があるかもしれないが、シーライオン7には極めて日本的な気遣いが随所に感じられたのだ。
シーライオン7は最新のEVである。大容量バッテリーを搭載し、高性能モーターで駆動する。各種センサーや運転支援機能も充実しており、将来の自動運転社会を見据えた設計思想が盛り込まれている。ところが実際に触れてみると、機械が人間を支配するような冷たい印象がないのだ。
たとえばテスラは、未来の宇宙船のコクピットに座ったような異次元の感覚になる。徹底して物理スイッチを排除し、すべてをモニターの中へ収めようとしている。その合理性は理解できるが、どこか機械に人間が合わせているような感覚も残るのだ。それに比較してシーライオン7は、未来的でありながら、人間の感覚を置き去りにしていないのである。

あえて手動で電源を落とす動作がドライバーに確かな安心感をもたらす
ドアを開けて運転席に腰を下ろす。するとクルマは自動的に起動し、すでに走行準備が整っている。ドライブセレクターをDレンジに入れれば、そのまま静かに走り出せる。ここまでは近未来的な演出だ。
ところが降車するときには、あえてイグニッションオフのスイッチを押さなければ完全には電源が切れない。理屈だけで考えれば、自動的に電源を落とせばいい。最新EVならそう考えそうなものだ。だが、このひと手間が意外に重要なのである。
指先でスイッチを押し、自分の意思でクルマを停止させる。その確認行為によって、「クルマは確かに停止した」という安心感が得られる。人間は理屈だけで安心する生き物ではない。確認したという行為そのものが、安心につながるのだ。

スマートフォンの冷却機能など細部に宿る気遣いに日本車の手法を重ねる
こうした配慮は他にもある。スマートフォンのワイヤレス充電機能(非接触充電)もそうだ。
最近は多くのクルマが非接触充電機能を備えている。しかし実際には充電中にスマートフォンが高熱になり、充電速度が落ちたり、最悪の場合は充電が停止したりすることも珍しくない。
ところがシーライオン7では、充電スペースに冷風が当たるよう工夫されている。言われてみれば当たり前のことだが、実際にそこまで配慮しているクルマは意外と少ない。せっかく充電機能を装備しているのに、熱で充電できなくなる。そんな本末転倒を防ぐための対策なのである。
さらに細かな収納の配置やスイッチ類の操作感にも同じ思想が感じられる。目新しさを優先するのではなく、人が自然に使えることを重視している。開発者たちはスペック表を眺めるだけでなく、実際にクルマを使う場面を相当に研究したのだろう。
クルマづくりには2つの方向性がある。ひとつは技術で人間を驚かせること。もうひとつは技術を感じさせないほど自然に使わせること。シーライオン7は後者に近い。あくまで人間が主役であり、技術はその脇役として機能しているのである。

考えてみれば、日本車が世界で評価された理由もそこにあった。壊れないこと、使いやすいこと、気配りが行き届いていること。派手さではなく、日常の快適さを積み重ねてきた結果、使っている人が当たり前に自然に使用できる「気遣い」の設計だった。
だから僕は少し複雑な気持ちになった。かつて日本メーカーが得意としていた「気遣い」の文化を、いま中国メーカーが真剣に学び、自らの製品へ取り込んでいるように見えたからだ。
BYD シーライオン7は、単なる高性能EVではない。未来を見据えながらも、人間の感覚を忘れていないクルマだった。それは中国車だから驚いたのではない。優れたクルマとして素直に感心したのである。
そして気づけば僕は、「中国車」という枕詞をつけて語ること自体が、少し時代遅れになり始めているのかもしれないと思っていた。そこにあったのは国籍ではなく、1台のよく考えられた自動車だった。
































