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「世界最高のクルマ」を精巧すぎる京商1/18モデルで再現! 「ロールス・ロイス」黄金の歴史を振り返る

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TEXT: 長尾 循(NAGAO Jun)  PHOTO: 長尾 循/ROLLS-ROYCE MOTOR CARS

自動車というより「珠玉の工芸品」として歩んで約120年

 19世紀末に生まれたガソリン自動車は、20世紀に向けてドイツやフランスで次々に改良が続けられ、実用化が進んでいった。その一方、イギリスでは産業革命がいち早く進んだにもかかわらず、意外なことにガソリン自動車の発展・普及は大きく遅れていた。それは、当時イギリスで施行されていた「赤旗法」によって自動車の発達が大きく阻害されていたということも大きい。ロールス・ロイスが生まれたのは、まさにそんな時代であった。

 今回は、京商からリリースされている1/18ミニカーを肴に「The Best Car ㏌ the World」を標榜するロールス・ロイスを改めて検証してみよう。

20世紀初頭は自動車後進国だったイギリス

 スピードに魅せられたスポーツマンであり、生まれて間もない航空機の操縦もたしなむなど、機械全般に造詣が深かった英国貴族、チャールズ・スチュワート・ロールス(1877~1910年)は1896年、19歳の時にフランスの「プジョー3 1/2」を手に入れ、自動車のもつ可能性・将来性を確信した。

「クルマの最高速度は市内で時速2マイル(約3.2km/h)、郊外で時速4マイル(約6.4km/h)に制限、さらのクルマの前方60ヤード(約55m)に赤い旗を持った人物を歩かせ、周囲にクルマの接近を知らせるべし」という、悪名高き赤旗法の撤廃に尽力すると同時に、様々なレースなどにも参戦。1902年には自らの自動車輸入会社を立ち上げ、パナール、モール、ミネルヴァの輸入・販売を手掛けるようになる。

 一方、貧しい労働者階級の家庭に生まれ、若くして鉄道会社や電気系メーカーで研鑽を積んだ頑固で完璧主義の技術者・フレデリック・ヘンリー・ロイス(1863~1933年)は、やがて独立し1884年に自身の電機メーカーを設立。信頼性に富むダイナモや小型モーターの製造で大きく発展していた。そんなロイスが初めてクルマを手に入れたのは1902年のこと。それはデコーヴィルというフランスの小型車であったが、生来の技術者魂がそのクルマの徹底的な解析へと向かわせた。

 ロイスがたどり着いた最終的な結論は「もし完璧なクルマを作ろうとしたら、自らが作るしかない」というものであった。自動車の研究に没頭したロイスは、早くも2年後の1904年には2L直列2気筒10HPの「ロイス1号車」を完成させる。この1号車からしてすでに、その工作精度の高さから当時としては圧倒的な静粛性を備えていたと言われる。

ふたりの「R」が手を組み英国車の評価を上げていった

 海外からの輸入に頼るのではなく、いつかは優れた自国産のクルマを販売したいと願うロールスと、新たな事業になりうる自動車製造を考えたロイスが出会ったのは1904年のこと。ロイス1号車の完成度に感銘を受けたロールスは、彼の手がけたクルマを自身の会社で販売することを提案。その年の暮れには両社の間に正式な契約が結ばれた。そのクルマの車名は2人の名前をハイフンで結んだもの、すなわち「ロールス・ロイス」とされたのである。

 さらに2年後の1906年に両社は合併。ロールス・ロイスは完璧主義とも言えるクオリティ・コントロールと、ロンドンから自走でパリのモーターショーに参加したり、マン島のレースに出場して好成績を上げるなどの販促活動ともあいまって、当時のヨーロッパ大陸では通説となっていた「英国車は二流」という評価を覆していった。

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