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ブランドは一朝一夕でつくれません、だから絶対にやめないし、これからも続けていきます【エンケイ株式会社代表取締役社長 三浦信氏:TOP interview】

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TEXT: AMW 西山嘉彦(NISHIYAMA Yoshihiko)  PHOTO: 横澤靖宏(YOKOSAWA Yasuhiro)

  • ENKEIの代表的なホイールであるRPF1
  • 1986年から日本メーカーとしては初めてF1へホイールを供給することに(写真は1987年鈴鹿)
  • 1995年からマクラーレンF1へホイールの供給をはじめる
  • 三浦氏は1981年に留学のために渡米、4年間の大学時代は美術学部に在籍
  • 米国生活が長かったこともあるのか、オープンでフランクな対応でインタビューを受けてくれる三浦氏
  • 大学の先輩から譲り受けたというプリムス ヴォラーレが、三浦氏にとっての最初のクルマとなった
  • 1986年頃の米国での社有車は「シボレーアストロ」だった
  • 大学時代、カンザス州からグランドキャニオンまで3200kmのクルマ旅をしたときの思い出を語る三浦氏
  • ENKEIの代表取締役社長である三浦信氏のインタビューは、JR浜松駅のすぐ隣りにあるアクトタワー26階の本社でおこなわれた
  • 米国インディアナ州にホイール生産工場を設立
  • マクラーレンのF1チームへ2021年迄ホイールを供給
  • 「日々のタスク、プロジェクトを一つ一つ区切っていけば、それぞれに達成感というのは得られると思います」
  • ENKEIのブランドを保つ意味においても、アフターホイールにはこれからも力を入れていくという
  • エンケイ株式会社代表取締役社長 三浦信氏

自社ブランドとモータースポーツにこだわるENKEI

ENKEIの代表取締役社長に2023年に就任した三浦信氏。1981年に留学のために渡米、4年間の大学時代は美術学部に在籍していたという三浦氏は、学生時代にどんなカーライフを送っていたのだろうか。米国ならではのスケールの大きなエピソードから、どうしてホイールメーカーであるENKEIに就職したのか、三浦氏のインタビューを通じてENKEIがなぜ自社ブランドにこだわるのか、そしてモータースポーツを重要視しているのかなどについて迫っていこう。

三浦信氏のクルマ遍歴

JR浜松駅の改札を出ると、駅構内のデジタルサイネージで、ブルーのロゴと「ENKEI」の文字を見かけた人も多いだろう。ブルーは「知性」、ふたつの輪は「調和と共存」、伸びている円の動きでは「企業としての発展、活力」を表現しているというロゴは、無限を表す「∞(infinity)」のようでもあり、メビウスの輪のようにも見え、企業としての可能性を強く感じさせてくれる。また、モータースポーツファンならば、このロゴに抱くイメージは速さであったり強さでもある。

今回、ENKEIの代表取締役社長である三浦信氏のインタビューは、JR浜松駅のすぐ隣にあるアクトタワー26階の本社でおこなわれた。1985年に大学を卒業し、一旦帰国した三浦氏は、1986年に遠州軽合金株式会社(現・ENKEI)に入社。クルマ社会が発達した米国で青春を過ごした三浦氏、さぞかしクルマに対して強い思い入れがあっての入社かと思いきや、実はそうでもないらしい。ちょうどバブル景気前夜の時代、日本では大学生がクルマを所有することも珍しくなくなってきた頃に渡米した三浦氏は、どのようなカーライフを送っていたのだろうか。

「大学での日本人の先輩が乗っていたクルマを、600ドルで譲ってもらったんです、その先輩が帰国するので手放すことになって。おそらく先輩は1000ドルくらいで購入した中古車だったと思います。3.7L直6エンジンを搭載したプリムス ヴォラーレというクルマで、アメリカのビッグスリーがいわゆるコンパクトセグメントに進出していこうとする一番最初の頃のクルマだったと思います。2ドアのハードトップで、ルーフの後半は本革のようなビニールなんですね。ですからものすごくおじさんが乗るようなイメージでした。

このヴォラーレが私の最初に所有したクルマということになります。当時は1ドル240円の時代で、学生ビザと呼ばれていたビザで渡米したんです。勉学のために発行されたビザなので、学校の外に出てバイトすることが一切できないという事情があって、ものすごく切り詰めた生活をしてました、実家からの仕送りだけが頼りでしたから。

ただ、唯一稼ぐことができた場所が、大学構内で使う印刷物を発行する大学の印刷所だったんですね。その印刷物用のイラストなどを描かせてもらったりして、少しずつ貯金した600ドルで譲ってもらったというのが思い出ですね。ですから当然アフターのホイールやマフラーに替えようだとか、とにかく金銭的にそんな余裕はありませんでした。あくまでも移動手段の一つとして、手に入れたという経緯があります。そもそもアメリカは、クルマを移動手段の一つに考えられる方が多いですから。

このプリムス ヴォラーレには2年ほど乗ったんですけど、手放すことになったのは、トランスミッションが壊れてしまって、その修理に350ドルかかるということで廃車にしてしまったんです。600ドルで買ったクルマの修理に350ドルをかけるのもどうかな、と思いまして」

往復3200キロのふたり旅

移動手段として購入したというが、学生時代、しかも米国でしか経験できないロードムービーのような旅も三浦氏はこのプリムス ヴォラーレで味わったそうだ。それもジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』のような弾丸トリップである。

「私が通った大学は、ドラマ『大草原の小さな家』の舞台にもなったカンザス州にありました。そこから大学の日本人の後輩とふたりで、グランドキャニオンまで行こうということになったんです。後輩はまだ運転免許を持っていなくて、片道1600kmぐらいですかね、途中2泊して3日間かけてグランドキャニオンまで旅したんです、すべて私の運転で。当時、1ガロン(約3.8L)80セントでしたから、ガソリンは非常に安かったんです。それでもガソリン代を節約するためにエアコンはかけずに窓を開け放しにして、往復3200km走ったのは、いまでも鮮明に覚えています。それで、カンザスまで戻ってきたら、トランスミッションから煙が上がってきて、住んでいる街についた途端にトランスミッションが変速できなくなったんです。そこで、知り合いの整備工場で診てもらおうということで、そこへ向かっている道中で停まってしまって……。後輩と二人でクルマを押して整備工場まで運んだのが、ヴォラーレの一番の思い出です」

先述の通り修理を諦め、初めてのクルマであるヴォラーレを廃車にした三浦氏は、1976年式のフォード サンダーバードを、これまた同じく500〜600ドルで譲ってもらうことになる。こちらは同じ大学寮に住んでいたタイ人の友人から譲り受けたもので、大学を卒業して他の大学に進学するということで、ちょうど手放すタイミングだったという。日本人留学生のだれもがクルマを所有していたわけではなく、必要なときは彼らにクルマを貸して、留学生仲間で半ばシェアして乗っていたそうである。

そんな三浦氏が大学を卒業するのは1985年。その冬に日本に帰国。たまたま縁あって遠州軽合金(現・ENKEI)を知った三浦氏を運命の女神は再び米国へと向かわせるのである。

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