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メルセデス・ベンツ「300SLプロトタイプ」で大クラッシュ! 名ドライバー「カラッチオラ」と名監督「ノイバウアー」の友情はいかにして終わったのか

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/妻谷コレクション(TSUMATANI Collection)

カラッチオラ2度目の大事故で引退へ

1952年中ごろ、ルドルフ・カラッチオラの偉大なレーシングドライバーとしてのキャリアが終わった。それは5月18日に開催されたスイスのベルンGPであった。カラッチオラはルドルフ・ウーレンハウトが新設計したメルセデス・ベンツ「300SLプロトタイプ」(W194)で好スタートを切った。次いで、カール・クリンクとヘルマン・ランクのメルセデス・ベンツが続いた。

10周目。今やクリンクがトップで、続いてランクとカラッチオラが追っていた。13周目。ノイバウアー監督は彼らが通過するごとに喜んでいた。4台のシルバーアローがリードするレース運びとなっていた。カラッチオラは3位にいた。彼は旧ライバルであるランクを捉えた。カラッチオラは歳をとっていたが、以前のお返しをしてやろうと考えていた。彼は追い越した。危険なフォルストハウスのカーブで、カラッチオラはブレーキを軽く踏み込んだ。車両は引きずったように横揺れし、右へ振り回され、そして左へふっ飛んだ。カラッチオラが立て直そうとした時、ガチャンと凄まじい割れる音とともに木片が散らばった。

ノイバウアー監督をはじめスタッフたちはピットにおり、そして待っていた。トップグループがとっくにこちらに来るはずであった。が、しかし1台も車両が来なかった。ノイバウアーは熱くなってきた。何かアクシデントでもあったのか?

コースから何の報告もなく、スピーカーからもない。ノイバウアーの気がかりな予感が確実なものとなった。何か恐怖が襲いかかってきた。1人の男が手を振り回し、「救急車、救急車だ!」と叫びながら、息も絶え絶えになりながらこちらへと来た。

「どうしたのだ?」とノイバウアー監督はその男に大声で言った。

「カラッチオラが酷い。足、頭がぐちゃぐちゃだ!」とその男は言った。

救急車がやって来た。担架が降ろされ、担架の上のカラッチオラは血まみれであった。妻の“ベビー”・カラッチオラは見た。カラッチオラが体を起こそうとし、手を振ってみせようとしているのを! また、ひどい血まみれの顔も見た。

「ルディ!」と彼女は大声をあげた。

「ベビー!」と小声で彼は言った。「オレはついているんだ。折れたのは左足だ。さらに短くなるだろうから、もうびっこは引かなくて済むよ」と加えて言った。

5カ月間カラッチオラはギプスをはめ、再び歩くことができるまで2年が過ぎた。ルドルフ・カラッチオラは2度とレースで走ることはなかった。

アルフレッド・ノイバウアー監督は後に次のように述懐した。

「私はヌボラーリ、ローゼマイヤー、ランク、モス、ファンジオなど偉大なドライバーたちを知っている。だが、その中で最も偉大なのはカラッチオラだ」と!

【ルドルフ・カラッチオラ】

1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。

つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。

その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。

【アルフレッド・ノイバウアー】

メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。

レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。

そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。

1974年、筆者は当時のダイムラー・ベンツ社のトレーナーを介して、彼の著書『MÄNNER-FRAUEN UND MOTOREN』(タイトルは「男と女とエンジン」で408ページの長編)に自筆のサイン&写真を添付して送付して頂いた(メルセデス・ベンツミュージアム館長時代)。

■参考文献:“Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953

【ノイバウアーとカラッチオラの物語】
・第1回:「ピットサイン」の考案者はメルセデスの名監督「ノイバウアー」だった…「雨天の名手カラッチオラ」との友情のはじまりとは
・第2回:レース史上初の「ピットサイン」はメルセデスが考案! 世界恐慌の危機に名監督「ノイバウアー」が提案した斬新な参戦プランとは?
・第3回:「ミッレ・ミリア」で初めて勝利した外国人ドライバー「ルドルフ・カラッチオラ」…ベンツからアルファに移籍して襲った大事故からの彼の運命は…!?
・第4回:伝説のメルセデス・ベンツ「シルバーアロー」はなぜ勝ちまくれた? 公道最高速430キロ超を記録した名選手「カラッチオラ」の活躍を振り返ります

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  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 1949年生まれで幼少の頃から車に興味を持ち、40年間に亘りヤナセで販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特にメルセデス・ベンツ輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版のカタログや販売教育資料等を制作。またメルセデス・ベンツの安全性を解説する独自の講演会も実施。趣味はクラシックカー、プラモデル、ドイツ語翻訳。現在は大阪日独協会会員。
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