購入したユーザーは悲惨な目にあっていた
1958年8月にはファセリアのプロトタイプが完成し、公道上のテストに持ち出された。そして1959年9月28日、ファセリアはプレス発表され、その後パリ・サロンでワールドプレミアを果たすことになる。 数週間のうちに1000台を超えるオーダーがあり、ファセリアの滑り出しは絶好調だった。
シリアルナンバーA101、タイプFAと呼ばれた2台目のプロトタイプが1960年3月15日に完成。市販バージョンもその年の6月にはラインオフする予定だった。市販版はツインキャブからシングルのソレックスに変えられていた。1960年のジュネーブショーでは、ダニノによって、2+2クーペと、4シータークーペが追加されることが発表される。しかし、1960年の秋までにリリースされたモデルはすべてカブリオレであった。
プロトタイプ完成直後の1960年3月17日にはダニノ自身のドライブで、再び1600㏄ GTクラスの速度記録を達成する。スピードは193.340km/hであった。さらに1961年のモンテカルロラリーでは、Maurice Gatsonidès/van Noordwijk組の2+2クーペが、見事にクラスウィンを達成した。ところがである。こうした輝かしい事実の裏で、購入したユーザーは悲惨な目にあっていた。それはオーバーヒートによるピストン破損というトラブルだった。
ファセル社はすぐさまそのトラブルに対処して修理を受け付けた。しかし、信用の失墜は大きく、ファセルは一気に経営危機を迎えてしまう。そして、このDOHCエンジンを諦めて、ボルボ製を搭載した「ファセルIII」を投入するも焼け石に水。こうしてわずか10年でファセルの歴史は閉じてしまうのである。
ファセルのオーナーには有名人が多かった
ファセルのオーナーには有名人が多い。レーシングドライバーのスターリング・モスは同社のアンバサダーとして、ファセリアのプレスローンチに出席しているほか、自身もHK500のオーナーだった。このほか、俳優のトニー・カーチスや映画『ファントマ』でおなじみのジャン・マレー、コメディアンのダニー・ケイ、さらにはビートルズのリンゴ・スターもオーナーとして名を連ねていた。1955年のル・マン24時間の大事故のきっかけとなってしまったオースティンのドライバー、ランス・マクリンは、事故後にファセルのエクスポート・ディビジョンで働いていた。
じつは我が家にこの信用失墜の元になったファセリアがある。手元に来た時点でエンジンはすでに1気筒が死んでいた。美しい4シータークーペのボディは、わずか46台しか作られなかった貴重なもの。デビュー当初に輸入元だった山田輪盛館が輸入した1台である。驚くことに美しいウッド(に見える)のインパネは、じつはフェイクで、しかもハンドペイントされたものだという。つまり鉄板に絵を描いたものだ。
エンジンはイギリスに送られて完全復活したはずだった。しかし、日本に帰って預けておいたショップが倒産し、エンジンはどこへやら。以来30数年、我が家のファセルはエンジンレスで眠ったままである。
余談ながらファセルが作ったクルマの総数は3033台であった。





































