ハリケーンが去ったニューオリンズの街をディープに味わう
2024年の8月末から、アメリカをミシシッピ川沿いに南北縦断して音楽の歴史をたどる旅に出ることにした筆者。ニューオリンズでダッジ「デュランゴ」をレンタルしてBBキングにちなみ“ルシール号”と命名し、ブルースの故郷である「ミシシッピ・デルタ」を巡ります。再度ニューオリンズに来て4人目のメンバーを迎えたものの、ハリケーンの直撃で2泊ほどじっと我慢……。やっと嵐が去りました。
ジャズ界の英雄ルイ・アームストロングを生んだ街
9月13日、街はようやく活気を取り戻した。ぼくたち4人は“ルシール号”に乗り込み、ジャズ・ミュージアムへと向かった。
ジャズという音楽がニューオリンズで生まれたことは定説だ。1865年に南北戦争が終わり、南軍が二束三文で投げ出したトランペットやトロンボーン、ドラムといった楽器を人々が手に取った。それにアフリカから伝わったバンジョーが加わり、のちにディキシーランドジャズと呼ばれる音楽が形になっていく。「聖者の行進」を演奏しながら、葬列を先導するお馴染みのシーンこそジャズの原型だ。
当時のニューオリンズはクレオールと呼ばれるフランス人と黒人の混血が幅を利かせていた。クレオールが住む高級住宅街、フレンチクォーターの近くには、ストリーヴィルという赤線地帯があり、ジャズマンたちはそこで音楽を演奏して収入を得るようになった。しかし、ジャズマンといってもプロのミュージシャンは、まだ存在しなかった。昼間は別の仕事をするセミプロの集まりだったのだ。
20世紀に入るとマシな仕事を求めて黒人たちが北部の大都市・シカゴを目指すようになる。ミュージシャンたちも同様だった。当時のシカゴには音楽産業が芽生え始めていた。その流れに拍車をかけたのが、1917年のストリーヴィル閉鎖だった。腕に自信のあるミュージシャンは続々とシカゴに移り、ニューオリンズのジャズを伝えた。
こうした時代に生まれた大スターが、ニューオリンズ出身のルイ・アームストロングだ。シカゴで才能を開花させたサッチモ(アームストロングの愛称)は新しい音楽の世界を切り拓いた。彼は間違いなくジャズ界の英雄だ。ニューオリンズの空港はルイ・アームストロング国際空港であり、街には彼の名を冠した立派な公園もある。