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フィアット「ウーノ」のエンジンが東名高速出口で盛大に落ちた! 80年代はキザなコピーがデフォルトでした【ぼくたちのバブル考現学:第二話】

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TEXT: 青山尚暉(AOYAMA Naoki)  PHOTO: 青山尚暉(AOYAMA Naoki)

  • チェッカーモーターズから依頼されてコピーを執筆したフィアット ウーノのカタログ
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  • 不具合についてのクレームに対してイタリアからのFAXの返信は「奥さんと子供さんが無事でなにより」という陽気すぎる内容だったらしい……
  • チェッカーモーターズから依頼されてコピーを執筆したフィアット ウーノのカタログ
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フィアット・ウーノの思い出

輸入車のことを「外車」と呼んでいた80年代バブル期。「ワンレン・ボディコン」スタイルの女性が増殖し、彼女らのいわゆる下僕が「アッシー、メッシー、ミツグクン」と呼ばれていた時代です。このバブル時代にモータージャーナリストになった青山尚暉さんが、当時のことをクルマを交えて振り返る「ぼくたちのバブル考現学」。第二回はカタログのコピーを担当した、フィアット「ウーノ」にまつわる思い出話です。

チェッカーモーターズからカタログのお仕事が!

1980年代初頭、足繁く通っていたクルマ屋があった。それは田園調布の環八沿いにあったチェッカーモーターズというお店である。一度、ボルシェ「924ターボ」の中古車を見に行ったのが、チェッカーモーターズを知るきっかけだった。

すでに輸入車専門誌にかかわっていたため、以来、社長の兼子眞さんと懇意になり、とくに用もないのに店舗を訪れ、クルマ話に花を咲かせていた。兼子さんは当時、クルーザーも所有していて、佐島マリーナから出航するクルーザーに乗せてもらったこともある。

そんなチェッカーモーターズが1983年、中古車専業店からイタリアのフィアットの代理店になることになった。当時、ボクは輸入車専門誌で試乗記だけでなく各誌で「ウィークロードインプレッション」と言った、男女が外車でドライブするエッセイ的な記事の連載も持っていた。

そんなボクに、あろうことか、チェッカーモーターズがフィアットの代理店になった第一弾のフィアット「ウーノ」のカタログ2部のコピーを書いてもらえないか、という依頼があったのだ。物書きとして、それはそれは嬉しく光栄なオファーであり、ギャランティのことなどなんの打ち合わせもなく、コピー制作の作業に入ったのである。

歯の浮くようなコピーが80年代してました

完成したフィアット ウーノのカタログは2パターンあり、緑の装丁のほうがUno 45Fire、Uno 60S、Uno Selecta、Uno 70SL、Uno 75SX。黒の装丁のほうがFIAT ABARTH1300turbo、Uno Turbo i.e.が記載されているという振り分けであった。

当時は歯の浮くような文章、コピーが何故か得意で、今、それから42年たってウーノのカタログを読み直してみると、それはもう恥ずかしい、いかにもなコピーで溢れ返っている。とはいえ、そうしたコピーが80年代の時代の空気にマッチしていたのかも知れない。だって、直しはほとんどなかったと記憶しているからだ。

もう42年も前のことだから、コピーのギャラがいくらだったかは覚えていないけれど、今でも鮮烈な記憶として残っている事態が、その後、発生したのである。

というのは、ギャランティ代わりだったのか、定かではないが、翌年あたりからフィアット ウーノをしばらくお借りすることができたのだ。それはもう嬉しいオファーで、結婚→子供の誕生→フェアレディ280Z TバールーフからVWゴルフIIに乗り換えた頃であり、ドイツ車のゴルフとイタリア車のウーノというコンパクトハッチバック車の2台持ち生活が始まることになったのである。

ウーノに「ドーン」と震度7くらいの激震走る!

が、今でも忘れられない事件は、まだ採用され始めのCVTを搭載したUno Selectaを受け取った数日後に起こった。

その日、カミサンが1歳の子供をレカロのチャイルドシートに乗せて、東名高速道路川崎IC出口の料金所に着いたときだ。料金を払おうとして(当時はETCなどない)停止したとたん、彼女の言葉、体験談によれば「ドーンという震度7の地震が起こった」というぐらいの振動が、ウーノを襲ったらしい。そして走れなくなったそうだ。

もちろん、販売店に連絡し、キャリアカーで工場に運ばれることになったわけだが、その原因が昔のイタリアだ。なんとエンジンを強固にマウントしている2本の極太ボルトのうち1本が、おそらく当時はまだ完成域になかったCVTの絶大なる振動!? によって突然、抜け落ちたようで(きっちり締まっていなかった!?)、エンジンがドーンと落ちて(傾いて)しまったのだった。カミサンにしてみれば、今でも思い出す恐怖体験なのである。

とはいえ、最初のウーノとは違う新しいウーノがわが家にやって来て、しばらくはなんのトラブルもなく、初めての愛車がマツダ「サバンナRX-7」のMT車だった運転好きのカミサンが、子供の保育園の送り迎えなどに「イタリア車はオシャレよ」なんて言いながら乗りまくり、走りまくっていたのだから、あの「震度7体験」のトラウマを引きずらず、切り替えの早い女性だったということか。ボクとしては遠慮!? して、VWゴルフIIやその後乗り換えたBMW E30「325i」ばかり乗っていた記憶がある。

ちなみに、その事件、不具合について、販売店を通じてイタリア本社にクレームを入れてほしいと頼んだのだが、イタリアからのFAXの返信は「奥さんと子供さんが無事でなにより」という陽気すぎる内容だったらしい……。個人的にはちょっぴりイタリア車不信になったものの、それから数年後には、ボクの人生を大きく変えることにもなったマセラティ「ビターボ」を買ったのだから(マセラティの話はまた今度)、当時、バブル前期とはいえ、イタリア服、イタリア料理、イタリアワインが大好きだった、ボクとカミサンの血中イタリア度はかなり濃かったと思われる(その後、F1イタリアグランプリ取材などでミラノを何度も訪れている)。そもそも、ボクが現カミサンと初めて出会った頃、23歳でRX-7 MTを乗り回していた彼女が持っていたバッグにはABARTHのサソリのマークが入っていたしなぁ……。つづく

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  • 青山尚暉(AOYAMA Naoki)
  • 青山尚暉(AOYAMA Naoki)
  • 学生時代からプロミュージシャンとして活動し、ある日突然自動車専門誌、輸入車専門誌の編集者に転身。その後、モータージャーナリストに。新車試乗記やクルマコラムの執筆だけでなく、1台のクルマに対して20カ所以上を独自開発ツールで計測する車両パッケージ解説にもこだわりまくる性分。また、ドッグライフプロデューサーとしても活動し、愛犬とのドライブ術、ペットと泊まれる宿について情報発信。Web、専門誌、一般誌、ラジオ、TV、インターペット、キャンピングカーショーなどで「愛犬との快適安心な旅スタイル」を提言。小学館@DIME、PETomorrowなどでは愛犬とのライフスタイル、ドッグフレンドリーカー記事を展開中。カートップの連載「CT DOG」をまとめた『愛犬と乗るクルマ』はドッグフレンドリーカー選び、愛犬とのドライブ旅行のバイブルとなるムック本。著書に「ぼくたちの外車獲得宣言」「ムリしないで外車が買える本」「すごい海外旅行術」など。輸入車の純正ペットアクセサリーの企画、開発、デザインにも携わっている。趣味はスニーカー、バッグ、帽子の蒐集。今も音楽をいい音で聴くことにこだわり、愛車のサウンドシステムは総出力400W 10チャンネル9スピーカーで構成されるデンマークの「DYNAUDIO」。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(1994年~)。
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