クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • デ・トマソの幻!1台生産され1度だけ参戦した貴重な「5000スパイダー」がモントレーオークションでまさかの低額で落札
CLASSIC
share:

デ・トマソの幻!1台生産され1度だけ参戦した貴重な「5000スパイダー」がモントレーオークションでまさかの低額で落札

投稿日:

TEXT: 武田公実(TAKEDA Hiromi)  PHOTO: 2025 Courtesy of RM Sotheby's/Bonhams

P70の姉妹車として並行してプロジェクトが進められていた5000スパイダー

デ・トマソ、キャロル・シェルビー、そして「デイトナ・コブラ・クーペ」のデザイナーであるピート・ブロックの野心的なコラボレーションにより生まれたデ・トマソP70は、当時のモータースポーツ界で世界一といわれた高額な賞金ゆえに人気爆発が見込まれていた北米の「カンナム(Can-Am)」シリーズへの参戦が目的に開発。同時期に欧州を中心に行われていた「FIA(世界自動車連盟)」レギュレーションによる耐久レースへのエントリーの可能性は、当初より排除されていた。

P70の基本形はヴァッレルンガのデザインを大きく借用し、鋼製バックボーンシャシーとその一部として負荷を引き受けるエンジン配置を採用。1台のみ作られた試作車では、キャロル・シェルビーが供給した289立方インチ(約4.7L)のフォードV8ユニットの競技用バージョンが使用された。また動力伝達については、初期の「フォードGT40」のアキレス腱となったことでも知られる「コロッティ・フランシス」製5速トランスアクスルが担当した。

そして鬼才ピート・ブロックが描いた未来的なボディデザインは、モデナの名匠メダルド・ファントゥッツィの手によって現実のものとなっていく。

ところが、当時苦境に立たされていたフォードGT40プログラムの救済のため、キャロル・シェルビーがP70プロジェクトから離脱したことにより、デ・トマソの計画は最終的に頓挫してしまう。しかし、抜け目のないアレハンドロは、翌1966年シーズンにFIA「世界スポーツカー選手権(WSC)」が懸けられたレースへの出場を目的とした姉妹車「スポルト5000スパイダー」の製作を、P70と並行して進めていた。

P70と同じシャシー設計、パワートレーンをベースに、かなりよく似たスタイリングのボディワークを採用しつつも、スポルト5000スパイダーはFIAの規制に準拠するため、高いフロントガラスとワイパー、より伝統的かつ実質的なドアといった特徴を与えられ、P70よりも武骨ながら、格段に現実的なアピアランスとなった。

1966年7月17日、デ・トマソ・スポルト5000スパイダーは、アレハンドロの長年の協力者であり、当時はアルファロメオのワークスドライバーでもあったロベルト・ブッシネッロのドライブによって、イタリア国内で開催されていた過酷な耐久レース「ムジェッロ500km」でレースデビューを果たしたが、残念ながらメカニカルトラブルによって、リタイアを余儀なくされてしまう。

さらに残念なことに、これがスポルト5000スパイダーのレースキャリアの始まりであると同時に、終わりも意味していた。当初5000スパイダーは一定数を製作し、FIAレギュレーションの耐久レースにエントリーしたいプライベートチームを対象に販売しようという考えもあったようだが、アレハンドロ自身の興味が、当時勃興しつつあった「市販スーパーカー」の市場へと急速に転向。「デ・トマソ・マングスタ」の量産化プロジェクトに注力していたこともあってか、プロジェクト自体がキャンセルとなってしまうのだ。

そしてムジェッロ以降、唯一製作されたシャシー「SP5000-001」はデ・トマソのモデナ本社工場へと戻され、アレハンドロ・デ・トマソの逝去(2003年)まで、ほぼ40年間にわたって放置されていた。その後、ベルギーの愛好家がデ・トマソの遺産から直接入手し、現在では米国在住の所有者に引き継がれているとのことだ。

123
すべて表示

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS