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人生を変えた“わずか28台の展示”のポルシェ博物館!ジャーナリストとしての出発点となったドイツ巡礼【クルマ昔噺】

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TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)

設計番号「007」に潜むポルシェ博士の哲学と見栄

ポルシェ以外のモデルとして展示されていたのが、ヴァンダラーW22と呼ばれるクルマだ。これこそ、フェルディナント・ポルシェ博士が設計事務所を開いて最初に手がけたモデルである。

ご存知のとおり、初期ポルシェのクルマは356や911など、数字で表示されている。これはポルシェ博士の設計ナンバーに由来し、例えば356は設計番号356となる。しかし、最初に作られたヴァンダラーW22には、ポルシェの設計番号007が打たれていた。

これは、ポルシェ博士が、仮にこのクルマに001を与えた場合、顧客に「この設計事務所にとっての初仕事である」と知られてしまい信用低下につながるのを避けるため、あえて007から始めたためだ。つまり、ポルシェには設計番号1から6は存在しない。ちなみに、有名なアウトウニオンのグランプリカーは022、フォルクスワーゲン ビートルは060である。

歴戦のレーシングマシンで見たポルシェ史

博物館の展示車両は、もともとポルシェが保有していたモデルに加え、外部から購入または交換したものがある。すなわち、個人が保有している車両をポルシェが譲り受ける代わりに、ポルシェが代替車をその個人に提供するという取引である。

その代表例が904GTSだ。10台が製作されたというワークスの904が個人所有となっていた。ポルシェがそれを譲り受ける代わりに、当時の最新鋭モデルだった911カレラRS2.7がその個人に譲渡された。その個人とは、ヨルダンのフセイン国王であった。

初めてル・マンを制した917は2台が展示されていた。このうちの1台は1970年に初優勝を遂げた#23で、シャシーナンバーは917023である。もう1台は1971年に出場したロングテールのマシン(ドイツ語でランクヘック)だ。こちらは最高速度386km/hを記録したが、リアサスペンションに負荷がかかりリタイアした。

1948年6月8日、設計番号356として産声を上げたモデルも展示されている。当初K45・286というナンバープレートを付けていたが、その年にスイス、チューリッヒの愛好家R.フォン・ゼンガー氏に売却され、1度だけレースに出場した。その後1953年に再びポルシェが買い戻した状態で展示されていたが、現在はオリジナルのボディに戻されているようだ。

車重382kgで270馬力など過激なヒルクライムマシンが並んでいた

1960年代、ポルシェはしばしばヒルクライムで勝利を収めた。博物館にはその専用のヒルクライムマシン「ベルクシュパイダー」が2台展示されていた。1台は909、もう1台は910である。疑問符(?)が付く読者も多いだろう。それもそのはずだ。906の後継車として作られた910は、元来サーキット用のマシンだが、これをベースにヒルクライム専用に作られた910ベルクシュパイダーが存在する。

ヒルクライムは重量制限がないため、チタニウムを多用した910ベルクシュパイダーは、車両重量が驚きの382kgであった。これに2Lフラット8(水平対向8気筒)、270bhpを搭載していたのだから、速いのは当然である。これを操ったゲルハルト・ミッターは1967年、1968年にチャンピオンに輝いた。

もう1台の909は、2回のレース出場を記録しただけで優勝はなかった。もっとも、そのコンセプトは後の908-03に受け継がれている。

さらにもう1台、重要なクルマはチシタリアのために設計したグランプリカーである。1.5Lフラット12(水平対向12気筒)、スーパーチャージャー付きのこのマシンは、残念ながら1度もレースに参戦しなかった。しかも4WDである。

ポルシェ博士はフランスに捕らわれの身であり、設計開発はフェリー・ポルシェと当時の設計部長だったカール・ラーベが行った。一説によると、この開発費用がポルシェ博士救出に使われたとも言われている。

このように、当時のミュージアムにはポルシェのコアな歴史が凝縮されていた。

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  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 幼いころからクルマに興味を持ち、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾る。 大学在学中からレースに携わり、ノバエンジニアリングの見習いメカニックとして働き、現在はレジェンドドライバーとなった桑島正美選手を担当。同時にスーパーカーブーム前夜の並行輸入業者でフェラーリ、ランボルギーニなどのスーパーカーに触れる。新車のディーノ246GTやフェラーリ365GTC4、あるいはマセラティ・ギブリなどの試乗体験は大きな財産。その後渡独。ジャーナリスト活動はドイツ在留時代の1977年に、フランクフルトモーターショーの取材をしたのが始まり。1978年帰国。当初よりフリーランスのモータージャーナリストとして活動し、すでに45年の活動歴を持つ。著書に三栄書房、カースタイリング編集室刊「世界の自動車博物館」シリーズがある。 現在AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)及び自動車技術会のメンバーとして、雑誌、ネットメディアなどで執筆する傍ら、東京モーターショーガイドツアーなどで、一般向けの講習活動に従事する。このほか、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」で自動車関連出品の鑑定士としても活躍中である。また、ジャーナリスト活動の経験を活かし、安全運転マナーの向上を促進するため、株式会社ショーファーデプトを設立。主として事業者や特にマナーを重視する運転者に対する講習も行っている。
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