解体屋から救ったのはCG初代編集長の小林章太郎という奇跡の出会いから復活! 1936年の日本初レースを制したインヴィクタとは!?
2026年4月に開催された「オートモビル カウンシル」では、「多摩川スピードウェイ90周年」を記念するトークショーが行われました。1936年、日本初にしてアジア常設サーキットで開催されたレースで優勝を飾ったイギリス車「インヴィクタ」の歴史と、解体屋での発見から奇跡の復活を遂げた数奇な運命についてレポートします。
オートモビル カウンシルで語る「多摩川スピードウェイ90周年」と、日本初レースを制した銘車「インヴィクタ」の軌跡
オートモビル カウンシルにて、「多摩川スピードウェイ90周年-日本のモータースポーツの源流-」というタイトルでトークショーをやらせていただいた。相手はその「多摩川スピードウェイの会」会長の小林大樹氏である。
90年前、日本初、アジア初の常設サーキットが多摩川の河川敷に建設された。1936年の話である。そして同じ年に初のレースが開催された。「優勝カップレース」というメインイベントで優勝したのが、CCCJ(日本クラシックカークラブ)のブースに展示されていた「インヴィクタ」というクルマであった。そもそもインヴィクタを知る人は、かなりの自動車通であってもなかなかいない。
この会社は1925年にノエル・マックリンとオリバー・ライルによって設立された。当時の多くのメーカーあるいはブランドがそうであったように、優秀なエンジニアと、それを支援する富裕層の組み合わせで会社が創設されている。
インヴィクタの場合、マックリンがエンジニアで、ライルが資金提供者であった。ただ、その資金提供者とエンジニアの間では、往々にして齟齬が生じることもある。資金提供者のライルは過剰なギヤチェンジを好まず、パワフルでありながら柔軟性のあるクルマを欲したという。
パワフルさと柔軟性はマックリンも目指していた部分であり、ライルの意見を取り入れ、最初のモデルは2.5Lのメドウズ製6気筒エンジンを搭載した、トルクフルな走りのクルマを作り上げた。この点において齟齬はなかった。
1928年にメドウズエンジンは排気量を4.5Lに拡大する。パワーの増大に伴ってシャシーも強化され、マックリンの義妹であるヴィオレット・コーデリーがドライブしたインヴィクタは、ブルックランズで30000マイルを平均時速60マイル以上で走破するという挑戦に挑んだ。そして見事にこれを達成し、デュワー トロフィーを獲得した。このトロフィーの獲得は、インヴィクタにとって2度目のことであった。
ちなみにメドウズは、ヘンリー・メドウズが起こしたエンジンやトランスミッションを作る会社だ。インヴィクタのような小規模の自動車製造会社にそれらを供給していた。メドウズエンジンを搭載したブランドはほかに、ラゴンダ、リー フランシス、フレーザー ナッシュなどがある。
貴族院議員の渡辺甚吉が英国から自ら輸入し、ヤナセの改造を経て日本初のレース覇者となった「インヴィクタ」と日本レース黎明期の熱狂
岐阜の実業家で、のちに多額納税者として貴族院議員(現在の参議院)になった渡辺甚吉は、1930年にヨーロッパへ外遊した。そのとき現地で買い求めて持ち帰ったクルマが、インヴィクタであった。1929年に製造されたモデルとのことで、シャシーが強化されたあとのモデルである。
エンジンはもちろんメドウズ製の4.5Lだ。このエンジンのコンロッドはジュラルミン製だという。**1920年代において、すでに航空機素材であるジュラルミンをエンジン内部に採用していた事実は、インヴィクタがいかにオーバースペックで最先端の技術を投入していたかを示す証左である。**ほかにも当時としては最高級のパーツが組み込まれており、このエンジンを積んだほとんどのインヴィクタは、最高速度80mph以上を記録したという俊足だったのである。
しかし、そんな高価な高級車製造は、世界恐慌によって大打撃を受けた。インヴィクタもその影響から逃れられず、1935年まで細々と生産を続けるも、この年で生産を終えている。
渡辺甚吉は、帰国して1931年から1934年までは、このクルマをショーファードリブンの乗用車として使っていた。つまり、持ち帰った当時はセダンタイプのモデルであった。欧州ではツアラーと呼ばれる類のモデルで、「NLC」もしくは「Aタイプ」と呼ばれたモデルであったと思われる(NLC説が有力)。
多摩川スピードウェイでのレース開催が決まったとき、渡辺はこのクルマをレース用に改造して参戦することに決めた。ドライバーは、当時このクルマのショーファードライバーを務めていた川崎次郎なる人物だ。そしてクルマの改造を手掛けたのは、柳瀬自動車(現在のヤナセ)であった。
出場したクルマは多種多様であるが、多くは解体屋からクルマを買って改造を施したモデルだといわれている。ドライバーのなかには、のちに本田技研工業を創業する本田宗一郎も名を連ねていた。彼が乗った「浜松号」もそうした改造車の1台である。
また、ブガッティが2台出場していたのも驚きだった。ちなみに当時の出場車一覧表を見ると、ブガッティではなく「ブガチー」と記述されている。外来語の表記すら定まっていなかった当時のプログラムからは、日本のモータースポーツ黎明期ならではの凄まじい熱気と空気感がありありと伝わってくる。
戦禍を乗り越え錦糸町の解体屋で小林彰太郎が発見、三度の渡洋を経て日本復帰し現役走行可能な1929年製「インヴィクタ」の数奇な運命
さて、優勝したインヴィクタのその後であるが、戦禍に巻き込まれて転々としたことは想像に難くない。そして1955年に、錦糸町界隈の解体屋に打ち捨てられていたこのクルマが発見され、レスキューされる。発見したのは現「多摩川スピードウェイの会」会長である小林大樹氏の尊父、小林彰太郎であった。
そしてレストアを始めるのだが、道半ばにしてアメリカ人に譲渡される。クルマは海を渡ってアメリカへと渡った。しかし、ボートテールスタイルのままレストアされた同車は、再び日本の愛好家によって買い戻され、当時のクラシックカーイベントにも顔を出していたようである。
しかし再度海を渡り、今度はドイツの愛好家のもとへ嫁ぐことになる。そして2016年には3度目の日本復帰を果たし、今に至っている。現オーナーは車検を取得してナンバーをつけており、現在も走行可能な状態にある。まさしく数奇な運命をたどったこのインヴィクタ。1929年製といえば、まもなく齢100歳を迎える名機である。









































