利益率が高かったミウラの特注仕様ビジネス! いまも全貌が解き明かされない10台のレプリカとは!?
ランボルギーニのテストドライバーが個人的に製作したワンオフモデルが「J(イオタ)」です。この特別な「ミウラ」は、多くのカスタマーを魅了しました。フェルッチオはオリジナルJの再生産を拒みましたが、ミウラをベースにしたイオタのレプリカである「SVJ」や「SVR」の製作には応じています。なぜレプリカが作られたのか、その数奇な運命とビジネスの裏側を紐解きます。
伝説的テストドライバーがファクトリーを利用して業務時間外に生み出したミステリアスな「J」とは!?
現在、ランボルギーニのファクトリーは厳重なセキュリティでアクセスが制限されている。しかし「ミウラ」が生産されていた当時は違った。カスタマーをはじめとするゲストに対し、内部は比較的オープンだったようだ。
同社のテストドライバー兼メカニックだったボブ・ウォレスは、あるワンオフモデルを製作する。社長のフェルッチオから正式なプロジェクトとして認められなかったため、個人的に業務時間外で作り上げたのだ。のちに「J(イオタ)」と呼ばれるこのスペシャルモデルも、ファクトリーの一角から生み出された。それがゲストの目に、きわめて魅力的かつミステリアスに映ったことは想像に難くない。
このJは、1970年10月にミラノのカスタマーへデリバリーされた。だが、オーナーに引き渡された直後に悲劇が襲う。未開通の高速道路でクラッシュし、車両火災によって完全に焼失してしまったのだ。唯一無二の存在が永遠に失われたことで、熱狂的なカスタマーたちはこぞって「自分のためにもJを製作してほしい」とリクエストするようになったのだ。
1970年、ボブの私物ともいえるJの販売に直接携わった人物がいる。当時のセールスマネージャー、ウバルト・ズガルツィだ。彼はかつて筆者の取材に対して「その価格は1000万から1100万リラでした」と証言している。
当時は1ドル=360円、1ドル=625リラという固定相場制が敷かれていた。この為替レート(1リラ=約0.576円)で換算すると、およそ576万から634万円となる。当時の日本の大卒初任給は約4万円だ。それを考慮すれば、現在の価値で3000万円を優に超える破格のプライスである。
先日ランボルギーニが発表したオフィシャルリリースに、当時のベースプライスが記されている。1966年デビューの「ランボルギーニ P400ミウラ」が770万リラ(当時の換算で約444万円)、1968年登場の「P400ミウラS」が785万リラ(約452万円)、1971年登場の「P400ミウラSV」が860万リラ(約495万円)だ。これらと比較しても、1000万リラ超えとされるJの価格設定がいかに強気であったかがよくわかる。
ミウラを正式モディファイすることで高額な利益を生むビジネスとなった「イオタ レプリカ」の系譜
フェルッチオにオリジナルJを再生産する意思はなかった。そのいっぽうで、ミウラをベースにしたレプリカモデルの製作には大きな興味を抱いた。Jと同様に、ミウラをはるかに超える対価を要求できるプロダクトだったからだ。
実際にイオタ レプリカのオーダーを受け、そのデリバリーに至るまでのプロセスを見届けたズガルツィはこうも語っている。
「ミウラにさらなるモディファイを加えることで大きな利益を得ることができるイオタ レプリカの製作は、ランボルギーニにとってはとても効率的なビジネスだったのです」
イオタ レプリカの製作をもっとも早く正式にリクエストしたのは、フーベルト・ハーネだ。彼はドイツで正規ディーラーを経営していた。1971年にデリバリーされた新車のP400ミウラSVをベースに、Jのようなスパルタンなモデルへの進化を望んだのだ。こうして実際に製作された車両に対し、ランボルギーニは「SVJ」の称号を与えている。
その後もランボルギーニは、SVJの名のもとに特別なミウラを製作していく。カスタマーのなかには、当時のイランで絶対的な権力を誇ったパーレビ国王の名もあった。また、SVJのなかにはタルガトップを採用した「SVJスパイダー」も1台のみ存在する。1981年のジュネーブショーに出品され、ゲストの目を熱く刺激した。
日本で「イオタ」として愛されたSVRと、解き明かされないミステリアスな全貌こそランボルギーニの魅力
そしてもう1台、見逃せないレプリカが存在する。「SVR」と呼ばれる、きわめて独特なアピアランスを持つモデルだ。1970年代半ばの日本では、このSVRがイオタとして認識されていた。当時のブームを記憶するファンには広く知られている事実だ。このSVRはP400ミウラSをベースに製作されている。現在ではクラシック部門の「ポロ ストリコ」によってフルレストアされ、新車同然のコンディションへと復活を遂げた。
最後のSVJは、フランス人実業家のパトリック・ミムランのオーダーで製作された。1980年、破産宣告を受けたランボルギーニはイタリア政府の管理下におかれる。その経営権取得入札に勝利し、新社長に就任したのがミムランだ。じつはこの入札には、経営から退いていたフェルッチオも復活をかけて参加していた。しかし残念ながら、その野望が叶わなかったのは隠された史実である。
はたして、正式に何台のイオタ レプリカが製作されたのだろうか。同社は先日、ミウラの生誕60周年に合わせてオフィシャルリリースを発信した。そこには一連のミウラシリーズのヒストリーが詳細に示されている。しかし残念ながら、ベルトーネ作の「ミウラ ロードスター」などを含め「10台のスペシャルモデルが製作された」という記述があるのみだった。
イオタ レプリカの全貌は、現在でも正確には解き明かされていない。そのミステリアスな歴史の余白こそが、半世紀を超えてなお人々を熱狂させるランボルギーニ最大の魅力なのかもしれない。
>>>過去のミウラ伝説を読む


























































