壮麗なボディはカロッツェリア・トゥーリング譲り
アストンマーティンDB5のボディは、基本デザインをイタリア・ミラノの名門、カロッツェリア・トゥーリングの社主兼チーフ・スタイリストであるカルロ・フェリーチェ・ビアンキ・アンデルローニが手がけたものとされている。
またその架装工法も、ほぼボディ形状を成した極細鋼管製の骨格に、電蝕を防ぐためのフェルトを巻いてアルミパネルを張りつけるという、トゥーリング特許の軽量工法「スーペルレッジェーラ」のライセンス供与を受けながらも、コーチワークそのものはニューポート・パグネルの旧アストンマーティン本社ファクトリーで行われていた。
バリエーションは伝統的に「サルーン」と呼ばれる2+2クーペ、そして「ドロップヘッドクーペ(コンバーティブル)」の2本立てとされたが、そのほかにも英国の老舗コーチビルダー、ハロルド・ラドフォードの架装による極めて贅沢なエステートワゴン、「シューティングブレーク」も12台だけ製作されている。
ボンドカーにならずとも、世界一有名なクルマとなる素養は充分
ところで、DB5に代表されるデーヴィッド・ブラウン時代のアストンマーティンは、フェラーリに対する対抗意識を明らかにしていた。ブラウンのアストン買収とフェラーリの創業は時期的にもごく近いうえに、どちらもそれぞれの国を代表する高級グラントゥリズモであり、しかもル・マンなどの長距離レースでしのぎを削っていたことからも、お互いライバル視するのは、むしろ当然のことだったのだろう。
DB5が販売されていたのと同じ時期、フェラーリの主力機種は250GTE2+2だったが、この両車の比較では動力性能、シャシー性能(とくにブレーキ)、そして商品クオリティに至るまで、若干ながらアストンがリードしていたとされている。
筆者はかつて、DB5を主力商材とするクラシックカー専門店で働いていたことがあり、このモデルはかなりの台数を実際に走らせる機会を得たのだが、その骨太な走りと細部にわたるクオリティの高さに、乗るたびごとに新鮮な驚きを感じていた。
このDB5こそ、アストンマーティンにとっては忘れえぬ「マイルストーン」あるいは「アイコン」と言うべき名作。さらに言うなら、単にアストンに留まらず1960年代のスーパースポーツを代表すべきモデルのひとつとなった。
「The Most Famous Car in the World(世界一有名なクルマ)」と呼ばれるに至った要因は、ボンドカーだったから、だけではないのである。