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メルセデスの「シルバーアロー」誕生は問題児レーサーのひとことがきっかけでした。マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュとはどんな人物?

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: メルセデス・ベンツAG/メルセデス・ベンツミュージアム/妻谷コレクション

シルバーアロー誕生はブラウヒッチュのひらめき

昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトである。

1932年10月、当時のAIACR(国際自動車クラブ連盟・パリ本部)は、いつも高馬力で重量の重いメルセデス・ベンツ(まさに白い象)が優勝し、限りのない超高性能車の開発に歯止めをかけるため、1934年からの新しいGPフォーミュラを発表した。車両の重量は燃料、オイル、タイヤそして冷却水を除いて、750kgを越えてはならないとされ、エンジン出力と排気量は限定されなかったが、レースの距離は最低500kmと決められた。750kgフォーミュラは1934~1936年まで適用され、当時の技術開発全体の水準に合っていた。

1934年、メルセデス・ベンツは極秘に354PSの「W25」を車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発し、1934年6月3日にドイツ ニュルブルクリンクサーキットで行われたアイフェルレースに出場した。

しかし、メルセデス・ベンツW25のこのデビューレースの前夜の車検でこのW25レーシングカーは規定の750kgを1kgだけオーバー。頭を抱えたアルフレッド・ノイバウアー監督にブラウヒッチュは「ヤスリをかけてボディのアルム外板でも削るか」と何気なくつぶやいた。彼の言葉がきっかけで、ノイバウアー監督の指示の元、メルセデス・ベンツのエンジニアたちはドイツのナショナルカラーであるホワイトのペイントを徹夜で全てはがし、750kgとしたことで出場許可を得ることができた。

アルミ地肌の「シルバーアロー」のW25を誕生させたのは、彼の「ひらめき」であり、またこのレースで優勝したのも彼であった。メルセデス・ベンツはこの年、イタリアおよびスペインGPなどで優勝、翌1935年には7つのGPを制覇。その後のレースでも連戦連勝を重ね、シルバーアローが定着したのは周知の通りだ。

W25のリア

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  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 1949年生まれで幼少の頃から車に興味を持ち、40年間に亘りヤナセで販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特にメルセデス・ベンツ輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版のカタログや販売教育資料等を制作。またメルセデス・ベンツの安全性を解説する独自の講演会も実施。趣味はクラシックカー、プラモデル、ドイツ語翻訳。現在は大阪日独協会会員。
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