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ブガッティ復活秘話⋯W18エンジン構想からはじまった開発現場の舞台裏を紹介します

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TEXT: AMW  PHOTO: Bugatti Automobiles SAS

若き社内デザイナー、ヨゼフ・カバンによる新たなスタイリング

そのわずか1か月後の1999年10月、東京モーターショーで「EB18/4ヴェイロン」が登場する。これは市販を見据えた最終進化形と位置づけられており、ここでブガッティはデザインの主導権をイタルデザインからフォルクスワーゲングループ社内へと移した。ハルトムート・ヴァルクスの指揮のもと、若きヨゼフ・カバンがエクステリアを担当し、よりコンパクトで焦点を絞ったミッドエンジン・スポーツカーのシルエットを提示した。

スタイリングはのちの市販モデルの象徴的なフォルム、プロポーション、デザイン要素を強く予感させるものとなった。当初はW18エンジンを搭載していたが、最高出力1000ps超の出力と、自然吸気W18の熱管理という課題を克服するため、2000年には新たな8L W16クワッドターボエンジンの開発が決定される。このエンジンは、最高出力1001ps、最高速度400km/h超というピエヒの掲げた極限の目標性能を、より高効率で実現するものであった。前例のないほど高度な冷却システムが必要とされる、まさに挑戦的な設計であった。

ヴェイロンという名称が最終コンセプトおよび市販モデルに与えられたのは、ブガッティの豊かな伝統を意図的に反映するためである。ピエール・ヴェイロンは、単なるレーシングドライバーではなく、ブガッティの開発エンジニアであり、公式テストドライバーでもあった。

コンセプトカーが示した未来への道筋

1939年にジャン=ピエール・ヴィミーユとともに、「タイプ57C」でル・マン24時間レースに優勝し、ブランドに栄光をもたらした。彼の名を冠することで、ピエヒの現代的なビジョンは、ブガッティのモータースポーツにおける栄光とエンジニアリングの伝統を今一度つなぐ役割を担うことになった。

ピエヒが日本の新幹線のなかで描いたW18のスケッチから、世界を席巻するヴェイロン16.4の誕生に至るまでの軌跡は、絶え間ない革新と試行錯誤、そして伝統への敬意によって彩られていた。EB118、EB218、EB18/3シロン、EB18/4ヴェイロンといった一連のコンセプトカーは、単なるデザインスタディではなく、それぞれが重要な進化の足がかりであった。

グランドツアラー、ラグジュアリーサルーン、ミッドエンジン・スーパースポーツといった異なる方向性を模索しつつ、意欲的なW18エンジンの限界を探り、最終的にW16パワーユニットの開発へと舵が切られたのである。ヴェイロンが体現した野心、技術的挑戦、そして進化するデザイン言語は、自動車の未来を切り拓くと同時に、過去に対する深い敬意のもとに結実した成果であった。

AMWノミカタ

1920年代のブガッティの特徴は、高性能で軽量なスポーツカーを作っていたことである。通算で1000勝以上のレースでの優勝を記録したタイプ35の重量は約750kg。3.7mのボディサイズにV8エンジンを搭載し、最高速度も190km/hを誇ったという。当時ル・マン24時間レースを席巻していた大型のベントレーに対してエットーレ・ブガッティは皮肉を込めて「世界最速のトラック」と語ったという逸話もある。

しかしピエヒがこれまでのブガッティの軽量・高性能コンセプトを継承していたら現在の成功はないだろう。大排気量、ハイパワー、ラグジュアリーという新しいコンセプトがブガッティを蘇らせた。

当時のモデルと現代のモデルを並べた写真を見るとあまりの大きさの違いに驚く。いかにも繊細で緻密な当時のモデルと、力強さがみなぎる現代のモデルの差に本当に同じブランドのモデルかどうか信じられない気持ちになる。しかしどこまでもパフォーマンスを追求する姿勢と、芸術品のような自動車を生み出す美学はブガッティらしさとして確実に受け継がれている。

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