安全技術としての側面を持つドリフトは使い方を間違えない理性が大切
問題は、公道と競技の線引きが長いあいだ曖昧だったことにあります。クルマ文化が成熟する過程で、「走る場所」と「試す場所」をきちんと分ける努力が、社会全体として十分だったかと問われれば、胸を張って肯定はできません。今回の法整備は「危ないから禁止」という単純な話ではなく、「場所を間違えるな」という強いメッセージだと受け取るべきだと思います。
包丁は凶器にも調理道具にもなります。銃はクマ退治にも使えますが、凶器にもなります。すべては使い手次第なのです。それと同様に、ドリフトはモータースポーツとして成熟しているのに、これをきっかけに白い目で見られるようなことになるのが心配です。
ドリフトを愛してきた人たちの多くは、決して無法者ではありません。クルマが好きで、操ることが好きで、その延長線上にドリフトがあった。だからこそ今、問われているのは覚悟です。公道では一切やらない。その代わりに、走るべき場所で正々堂々と腕を磨く。その線を、自分たち自身が引けるかどうか。
あるいは安全に走るための技術として、ドリフトコントロールが注目されてもいます。雪国ではごく穏やかな速度域でもタイヤがスリップし、結果的にカウンターステアで回避することも頻繁に発生します。ドリフトは安全のために不可欠なテクニックでもあるのです。
法改正でドリフトをどう定義しているのかが気になります。危険を誘発するドリフトと、安全のためのドリフトが混同されていないか、これもしっかりと注視したいと思います。
クルマは凶器にもなり、道具にもなり、芸術にもなります。どれになるかは、使う場所と、使う人次第です。だからこそ今は、静かにハンドルを握り直し、「どこで、どう走るべきか」を考える時期なのかもしれません。


































