限定30台生産の予定が嬉しい誤算に!
世界を一瞬で魅了したスーパーカーの夜明け
かくして正式に「P400ミウラ」という車名が決定し、 1965年11月トリノショーでの「TP400」の公開からちょうど1年後にあたる1966年のジュネーブショーで、その生産型は正式なデビューを飾ることになった。
だが、ここに至るまでにも、ランボルギーニの社のなかではさまざまな紆余曲折があったことはあまり知られていない。あくまでもランボルギーニのコアモデルは高性能なGTであるべきだと主張するフェルッチオは、「P400ミウラ」が販売面で大きな成功を収めることには懐疑的だった。ジュネーブショーの直前にランボルギーニと、ボディの組み立てを担当するベルトーネ(ボディを構成する各々のパネルはシルバーカーズによって製作され、それを用いてベルトーネの工場で組み立てるシステムだった)の両社を交えて行われた会議では、その生産は30台、多くても50台程度の限定で行うという結論が導き出されていた。ダラーラらが夢見ていた将来的なレースカーへの転用などは、おそらくは議題にものぼらなかったのではないだろうか。
だが、ジュネーブショーでの「P400ミウラ」に対する反応は、フェルッチオの想像をはるかに超えるものだった。最大のライバルであるフェラーリでさえ、まだロードモデルのV型12気筒2シーターはFRの「275GTB/GTS」だった時代。それまでレースカーのものと思われていたMRの基本設計を採用し、それをほかに比較対象がないほどに美しいボディで包み込んだ「P400ミウラ」は、より高性能で斬新なモデルを求めるスポーツカー・ファンの心を一瞬で魅了。ランボルギーニには続々とオーダーが舞い込むようになる。
それはフェルッチオにとっても嬉しい誤算であったに違いない。先に決定されていた限定生産計画は、当然のことのように、誰の口からも聞かれることはなくなった。そしてランボルギーニは、現在にまで続くスーパーカーの長い歴史の始まりにあるモデルをデビューさせた自動車メーカーとして、その名を語り継がれるようになるのである。
はたして「P400ミウラ」とは、どのようなディテールを持つモデルだったのだろうか。その詳細については、後述することにしよう。
>>>過去のミウラ伝説を読む

































