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「ファミリア」生誕60周年! トヨタや日産より販売台数を上回ったマツダを正真正銘の4輪メーカーに押し上げた功労車とは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了/マツダ/AMW編集部

マツダを代表するファミリーカー「ファミリア」が生誕60周年

2020年に創業100周年を迎え、2022年には本社工場に併設されたマツダ・ミュージアムをリニューアルオープンしたマツダですが、今年はその中興の祖となった「ファミリア」が生まれて60周年となりました。「アクセラ」を経て、今では「マツダ3」を名乗るコンパクトカーの元祖となったファミリアの登場した時代を振り返ります。

コルクのメーカーから機械工業へと転身し、やがて「バタンコ屋」の雄に

マツダの源流である東洋コルク工業は、1920年に設立されています。コルク栓を生産するときに生じる廃材(屑コルク)を再利用、加熱製法によって圧搾コルク板を商品化することに成功し、大きな一歩を記すことになりました。しかし関東大震災や、火災によるコルク工場の全焼などを受け、コルクの製造・販売から機械工業へと転身。昭和初期には軍需を受け入れていましたが、2代目社長を務めていた松田重次郎さんは、やがては自動車製造に参入しようと、まずはオートバイの生産から手がけるようになりました。

続いては3輪トラックの研究を始め、1931年には「マツダ号」DA型の生産を始めています。バックギヤの装着や、後輪にデフを組み込むなど、それまでのライバルメーカーの商品にはなかった機能やメカニズムを盛り込んでいたこともあってマツダの3輪トラックはマーケットで好評を博すようになっていきました。

また1927年には社名を東洋工業に改称しています。太平洋戦争が始まると東洋工業も軍事態勢に組み込まれてしまいましたから、4輪進出は一時お預けとなってしまいました。そして原爆が投下され終戦を迎えたのです。

戦後東洋工業は、原爆が投下された地元広島の復興をけん引しながらも、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQからの民需生産転換の許可を待って3輪トラックの生産を再開させることになりました。戦後復興のために、全国的に3輪トラックの重要は高まっていて、東洋工業ではさまざまな需要や、車両に対する規制(排気量やボディサイズ)の変化にも対応しながら、軽自動車枠の3輪トラックだけでなくロングボディや積載量を2tまで引き上げたモデルも続々投入。大きく売り上げを伸ばし、「バタンコ」と呼ばれていた3輪トラックの総合メーカーとして最大手となっていきました。

ちなみに、1960年から62年の3年間について、東洋工業の国内総販売台数は、トヨタと日産を上回り、国内トップに君臨しています。もっとも、売り上げのほとんどが3輪トラックで、首位となった台数ほどに大きな利益を得たわけではなかったのですが。

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