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いまや9億円で取引される「デイトナクーペ」にもっと乗っておけばと後悔! 最後はキャロル・シェルビー御本人がお買い上げ【クルマ昔噺】

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TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁/FORD

  • まだ制作中で色も塗られていない工場内のモデル。このクーペの写真を見て、あれ? と思った人はさすが。このマシンはシェルビーの手によってコンプリートされた唯一のディトナコブラで、他のモデルはすべてイタリアのカロッツェリア・グランドスポーツの作品である
  • シャシーナンバーCSX2287。初期のレースではこのクルマだけダックテールが付いていない
  • 1965年にデイトナ2000km、セブリング12時間耐久などに出場したゼッケン12号車のマシン
  • 1965年のデイトナ12時間レース。先頭右側、ゼッケン11が日本にやって来たCSX230
  • 著者と話をするのはピート・ブロック氏
  • 第3回日本グランプリ自動車レース大会の公式プログラム
  • 第3回日本グランプリ自動車レース大会の公式プログラム
  • 第3回日本グランプリ自動車レース大会の公式プログラム
  • 京都ナンバーを取得しているが、以前は品川にあったようだ
  • トミタオートから購入したデイトナコブラ

じつに惜しいことをした思い出が残る……

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第14回目はトミタオートから購入したシェルビー「デイトナクーペ」を振り返ってもらいました。

宿敵フェラーリ250GTOを打ち破ったデイトナコブラ

今回ご紹介するのは「デイトナコブラ」というクルマである。正式名称はShelby Daytona Coupe(シェルビー デイトナ クーペ)と呼ぶようであるが、ロードスターの「ACコブラ」をベースにGTクラスのスポーツカーに仕立て上げたもの。1965年のFIA GTマニュファクチャラーズのチャンピオンを獲得したマシンでもある。

まあ、スポーツカーと言ってもほぼレーシングカーという方が正しい。当時同じカテゴリーでレースをしていたのがフェラーリ「250GTO」。これを打ち破ってのチャンピオンなのだから価値がある。もともとロードスターのACコブラ(ハードトップ付き)でル・マンにエントリーしたシェルビーは、長い直線のトップスピードがフェラーリより劣ると判断し、当時シェルビーに在籍していたピート・ブロックに空力性能に優れたクーペボディのデザインを指示。結果出来上がったのがこのクルマだ。

このアイディアは見事に結実し1964年のル・マンでは宿敵フェラーリ250GTOを打ち破り、総合4位、GTクラスのウィナーとなった。そんな貴重なマシンがチャンピオンを取った翌年の1966年に日本へとやって来たのである。第3回日本グランプリに突如として姿を現したデイトナクーペは、酒井 正(敬称略、以下同)のドライブで雨の予選こそ最下位に沈んだものの、スタートでその大排気量のパワーを活かし、ストレートで一気にトップに躍り出た。その後2位を走るもまだまだハイパワーマシンを御しきれなかったのか、レースではエンジンを壊してリタイアしたが、そのスピードの片鱗はたしかに見せつけた。

当時のグランプリの公式プログラムがある。しかしエントリーリストに酒井 正の名も、またデイトナコブラの名もない。レース出場車として紹介されていたのは三保敬太郎のエントリーしたACコブラロードスターの写真が掲載されているが、これは出走していない。酒井はグランプリのエントリー締め切り1カ月前というタイミングで出場を表明したそうで、プログラムの作成には間に合わなかったということであろう。

CX2287というシャシーナンバーを持つクルマをオリジナルとして合計6台(たった!)が作られたこのクルマ、日本にやって来たのはシャシーナンバーCSX2300のマシンである。初レースは1964年2月のデイトナ12時間。その後珍しい白に塗り替えられて、ヨーロッパのレースを走る。

翌1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年はニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。

ワークスによるレース活動はここで終了。そしてキャロルシェルビー・ガレージセールによって、当時レース活動もしていたオートワールドという模型屋のオーナー、オスカー・コヴェルスキーに売却されるのだが、わずか数週間でドン・ニコルスに売却され、日本にやってくることになったのである。

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