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小林彰太郎氏ゆかりのレースカー「インヴィクタ」とは? 日本のモータースポーツの黎明期を伝えるクルマに富士モータースポーツ・ミュージアムで出会える!

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了(HARADA Ryo)

米国に渡ったが再び日本国内に戻る

そんなインヴィクタが再び歴史の表舞台に立った(は少し大袈裟か)のは、もはや戦後ではないと言われる1955年のこと。我が国を代表する自動車評論家のひとりであり、のちに自動車雑誌『CARグラフィック』を創刊することになる小林彰太郎さんが友人2人と錦糸町付近を歩いていた時に、川沿いの修理屋の軒先路上にあった同車を発見、その友人と2万円で購入することになったのだ。

ただし、その存在意義の重要性は知っていても若かった2人には成す術もなく、1956年には立川に在住していた米軍属のエンジニアであるプレストン・ホプキンス氏に譲渡。彼の帰国によって1929年式のインヴィクタ LCもアメリカへと渡っていった。これで同車の車歴から日本の文字は消滅するかに思われたが、1981年に、4年前にホプキンス氏からインヴィクタを購入した、というデイヴィッド・B.ウィリス氏からインヴィクタの情報を求めて突然の便りが届いたのだ。

日本から情報を送ったことも手伝い、同年にレストアが完成したペブルビーチで行われたモントレー・ヒストリックに参加。これを日本人がオークションで手に入れて再びインヴィクタは日本国内に戻り、ヒストリックカー・イベントや鈴鹿で行われたF1日本GPのドライバーズパレードにも使用されることになった。

インヴィクタが富士スピードウェイの駐車場を走った!

その後はもう一度、ドイツの有名なクラシックカー愛好家のもとへと国外に脱出したものの、2016年には3度目の日本上陸を果たしている。この数奇な運命をたどったインヴィクタは、2024年の秋から富士モータースポーツ・ミュージアムにおいて企画展示が行われてきた。12月中旬には小林彰太郎さんの長男で戦前の自動車文化史に詳しく『御料車と華族の愛車』の編集・執筆を手掛けられた、多摩川スピードウェイの会 会長でもある小林大樹さんの講演会が同ミュージアムにおいて開催された。さらにその1週間後には富士スピードウェイにおいてインヴィクタの走行会も実施されている。

ただし富士スピードウェイが舞台とは言うものの、もちろんハイスピードなレーシングコースではなく、パドックを出発し場内の駐車場までを往復する走行披露だったが、多くのファンから喝さいを浴びていた。

なお、富士モータースポーツ・ミュージアムではこのインヴィクタの企画展示を2025年1月末まで開催している。個人オーナーのプライベートコレクション故に、この機を逃すともう2度と出会うことがないかもしれない貴重なクルマであり、国内モータースポーツの黎明期を伝える証言車。見逃すことのないように。 

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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