昔のル・マンは24時間以上走っていた!?
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。2023年で開催から100周年を数えた「ル・マン24時間レース」。今回は、1991年にジャガーに招待され、初めて行ったル・マンでの出来事を振り返ってもらいます。
歴史に残る1991年のル・マンを取材!
1991年、生まれてはじめてル・マン24時間レースを見に行った。と言ってもレースを見るためだけにル・マンに行ったわけではなく、元々はジャガーの取材に呼ばれて行ったものだった。しかも、この年はジャガーがル・マンで初優勝してから40周年の節目の年だった。そこで、初優勝した「Cタイプ」を、40年前と同じような形でル・マンに送り込もうという計画が持ち上がり、それを実践したのである。
1991年といえばご記憶の読者もいるだろうが、マツダ「787B」が日本車として初優勝した年である。しかも、並みいる強敵のメルセデスやジャガーを制しての優勝だった。24時間を全力で走ることが、これほど過酷なことかとあらためて思い知らされた。しかし、私はその時点よりも40年前のル・マンはさらに過酷で、実質的には24時間以上を走らなければならなかったことを知っていた。
当時と同じようにサーキット目指しスタート
今でこそ、レーシングカーはサーキットを走るために作られたいわゆる専用のマシン。だが、1951年当時はそうではなかった。1950年代や1960年代のGTカーは、日常的にスポーツドライビングを楽しみ、たまにはそれをサーキットに持ち込み、飛散防止用のテープをヘッドライトに貼ってレースを戦い、そのクルマでまた家に帰る……というのがごく当たり前だったのだ。バックヤードでクルマを作り、あるいはジャガーのような高度にチューンされたクルマを購入して、レースを楽しむジェントルマン・ドライバーにとって、サーキットに赴くのはレース用のクルマ、と相場は決まっていたようである。
だから、ジャガー・ワークスとて、ワークスの工場からドライバーたちがマシンを操り、コースまで走り、ル・マンの場合は24時間のレースを戦い、そしてまた元来た道を工場まで戻るのである。
そんなある意味とてもロマンチックなイベントを、ジャガーは1991年に実践したのである。1991年6月20日。当時本社のあったブラウンズレーンの工場には、2台の「XK120」を含む、17台のCタイプが集合していた。まさに当時と同じように(と言っても当時はワークスカーだけだったと思うが)、ブラウンズレーンの本社工場からレーシングカーを自走させ、一路ポーツマスを目指し、そこからクルマをフェリーに載せてシェルブールに。さらにそこからル・マンまで走ったのである。
つまり、当時のレーシングカーは24時間どころの騒ぎではなく、すでにル・マンを走る前に軽く1泊2日のロングツーリングをこなし、それでレースに出て涼しい顔をして勝っていたのだから恐れ入る。40年たって、彼らは再び同じようにCタイプをル・マンまで走らせ、私はその一群を追いかけて会場入りしたというわけだった。