オラチオ・パガーニが描いた夢をカタチにした技術革新
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る過去の経験談を今に伝える連載。スーパーカー、あるいは「ハイパーカー」と呼ばれるクルマたちのなかでも、唯一無二の存在感を放つブランドがパガーニです。1992年に誕生し、わずかな台数ながら圧倒的な品質と個性で世界を魅了し続けるこのメーカーの背後には、創業者オラチオ・パガーニの強烈な哲学と技術力があります。今回は、東京で行われた発表会の筆者の記憶とともに、彼の来歴とブランドの成り立ちを振り返ります。
発表会で創業者パガーニが1時間語ったのは人生哲学と会社理念
2013年6月、今から12年ほど前のこと。比較的新しい記憶として残っているが、東京でとあるスーパーカーメーカー(当時は“ハイパーカー”と称していたと思う)の発表会が開かれた。メーカー名はパガーニ。創業者オラチオ・パガーニも来日し、この場で主役を務めた。
通常、発表会とは新型車の紹介が主目的であり、せいぜい業績の報告程度が加わることはあっても、あくまで「どんなクルマか」が中心となる。ところがこのときのパガーニは違った。始まってみれば、マイクを握ったオラチオ・パガーニが1時間近くも通訳を通して語り続けた。しかも、
「クルマの詳しい内容はUSBメモリーに入っているので各自で確認してほしい」
と言う始末。そして彼が語ったのは、自身の人生哲学であり、会社の理念だった。
F1王者の紹介状を手にランボルギーニに就職
当時筆者は、年末恒例のムック「世界の自動車」的な本の執筆を担当しており、とりわけ「エキゾチックカー」カテゴリーに手を焼いていた。というのも、このジャンルのメーカーは「できては消える」ことが多く、年ごとに公式サイトが残っているか、稼働しているかを確認する必要があったからである。
そんななか、パガーニ・アウトモビリは1992年創業の比較的新しいブランドだが、着実に存在感を増していた。
オラチオ・パガーニはアルゼンチン出身。その後イタリアに移住し、門をたたいたのがランボルギーニだった。この移住と就職を支援したのは、同郷のF1世界王者ファン・マヌエル・ファンジオだった。彼の情熱に打たれたファンジオが、自ら紹介状を書いてくれたという。
エンジニアとしての才能に加えて、パガーニは当時まだ珍しかったカーボンファイバー素材の将来性を見抜いていた。しかしランボルギーニの判断は「必要なし」。そこで彼は、オートクレーブ(カーボン成型用の加圧装置)を自費で購入する。
1985年、彼とチームはこの装置を用いて、世界初のフル複合材料製プロトタイプカー「カウンタック エボルツィオーネ」を製作。これは、のちの自動車業界におけるカーボンおよび複合素材技術の先駆けとなった。














































