カスタマーに放出された悲運の512Mの1台がFISCOへ
グループ5は最低25台の生産が義務づけられており、フェラーリもその条件をクリアしなくてはならなかった。ホモロゲーション(車両の公認)の期限当日、フェラーリは17台の完成車と残り8台分のパーツを検査官に提示したそうだ。これをもってホモロゲーションが通り、その直後には完成したうちの5台がデイトナ24時間レースへと送り込まれた。しかし、勝利を収めたのはセブリングでのレースのみで、残念ながら917の牙城を崩すことはできなかった。512Sの改良版である512Mが登場するのは、1970年シーズンの最終戦。徐々に軽量化を果たして戦闘力を増した512Sのスパイダーバージョンよりも、さらに軽量化されたマシンは815kgとなり、ボディカウルも大きく変更されていた。25台作られた512Sのうち、15台がこの512M仕様にコンバートされている。
せっかくマシンを完成させたというのに、ワークス・フェラーリは1971年シーズンを3Lプロトタイプに集中することを選択。結局512Mはカスタマーチームが使用することになり、その真の実力を発揮するには至らないという不運なマシンとなってしまったのである。
そのカスタマーに放出された512Mの1台が、FISCOにやってきたのだ。
レース本番で期待していたV12サウンドはわずか6周でリタイア
濃紺に白のストライプをまとったカラーリングはお世辞にもフェラーリらしくなかったが、予選で見せた走りは5番手とはいえ、ストレートでのV12サウンドは圧巻だった。ドライバーのグレッグ・ヤングはカンナム、インターセリエ、F5000などに出場したドライバーだが、目立った戦績は残していない。また、彼のデータベースで戦績を見てみると、48レースに参戦したとあるが、富士グラン300マイルレースはその48レースには含まれていなかった。
1972年6月3日(土)の本番レース、残念ながら天候は雨。第1ヒートはまだしも、第2ヒートになると大パワーのマシンには極めて不利な状況となり、ヤングのフェラーリも第1ヒートで6周目にリタイア、第2ヒートはわずか1周でリタイアとなり、不完全燃焼に終わってしまった。V12サウンドが聞けると思っていた私としては、まったく当てが外れたのだが、レース当日はなぜかパスもないのにコースに並んだマシンを撮影するという大胆な行動で、数点の512Mの雄姿を収めることができた。
両ヒートの合計で争われたレースは雨が大きく影響し、ビッグマシンはいずれも敗退。優勝はなんと柳田春人のフェアレディ240Zであった。
■「クルマ昔噺」連載記事一覧はこちら




































