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経営危機から奇跡の逆転!アストンマーチン「V8ヴァンテージ ザガート」が残した足跡【クルマ昔噺】

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TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)

V8ザガート誕生の背景

V8ヴァンテージの誕生には、このような背景があった。1984年のジュネーブショーで、アストンの主要メンバーはある構想を練っていた。それは、高価なハイパフォーマンスカーを少量生産することだ。既にポルシェは959で(デビューは1986年だが開発は1981年から)、フェラーリが288GTOでそれを実現し、確実な利益を得る目途が立っていたことに目を付けた。当時のチェアマンであるガントレットと、同じくアストンマーチンに出資していたピーター・リヴァノスは、アストン同様に疲弊していたザガートにその構想を持ち込んだのである。

ザガートが経営状態の悪化に陥ったのは、それ以前にデ トマソからマセラティ「ビトゥルボ スパイダー」の製造を請け負っていたことが原因だった。年間7000台がアメリカに輸出される予定で、ザガートは大忙しだった。ところが、同じくデ トマソ傘下で仕事のなかったイノチェンティの労働組合から、ビトゥルボ・スパイダーの生産をイノチェンティに移すよう要請があった。デ トマソがその要請を受け入れた結果、今度はザガートに仕事がなくなり、危機に瀕したというわけだ。もっとも、ザガートが危機に瀕していることをガントレットやリヴァノスが知ったのは、契約を締結した後だった。

アストンがザガートを選んだ理由は、DB4時代のつながりもさることながら、当時エルコーレ・スパーダの後任としてザガートのチーフデザイナーを務めていたジュゼッペ・ミッティーノのデザインを、ガントレットがいたく気に入っていたからである。彼の作品であるアルファ ロメオ「ゼータ6」を買い求めるほどだった。

発表された1枚のスケッチで50台を完売した伝説のクルマ

ミッティーノが作り上げたボディスタイルと、アストンが後に修正を要求したスタイルには多少の齟齬があった。ミッティーノは非常にスリークで美しいデザインを仕上げたが、アストンは当初、ポーランド人エンジニアのタデク・マレックが開発したV8エンジンに燃料噴射を装備する予定だった。しかし、所期のパワーが出ず、結局キャブレター仕様にせざるを得なくなり、結果としてボンネットに大きなバルジ(膨らみ)を作ることになったのだ。

しかし、問題はそれだけだった。

本来の目標としていたCd値0.29には届かなかったものの、当時としては立派な0.32という数値で仕上がった。

1985年のジュネーブショーでの発表は、なんとスペックシートと1枚のスケッチ画だけだった。ミラノの教会を設計した画家によるスケッチだったそうだが、生産予定の50台はその年のうちに完売した。スケッチ1枚で完売という伝説を作ったのだ。結局、需要は旺盛で、アストンはさらなる追加生産を目論んだ。それはクーペではなくヴォランテ、すなわちコンバーチブルとして生まれることになった。これに関しては、既に購入を決めていた既存のオーナーから不満が出たそうだが、結局追加で37台のヴォランテが生産された。

クーペの生産台数は52台といわれている。この中には3台のプロトタイプが含まれているが、日本にやってきた真紅のV8ザガートは、そのプロトタイプの1台だった。当時としては非常に高価(9万5000ポンド)だったため、日本での販売は難しいと判断されたようだ。当時のアストンマーチン・オーナーズクラブの会長であったS氏がその場で

「買おうかな」

と言ってみたものの、結局売れ残った。現在はコレクターであるK氏のもとで、快適な余生を送っている。ちなみに、アストンマーチンの元CEOで、ポルシェ出身のウルリッヒ・ベッツがすべてのアストンを試乗した結果、「これが1番だ」とお墨付きを与えた。

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  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 幼いころからクルマに興味を持ち、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾る。 大学在学中からレースに携わり、ノバエンジニアリングの見習いメカニックとして働き、現在はレジェンドドライバーとなった桑島正美選手を担当。同時にスーパーカーブーム前夜の並行輸入業者でフェラーリ、ランボルギーニなどのスーパーカーに触れる。新車のディーノ246GTやフェラーリ365GTC4、あるいはマセラティ・ギブリなどの試乗体験は大きな財産。その後渡独。ジャーナリスト活動はドイツ在留時代の1977年に、フランクフルトモーターショーの取材をしたのが始まり。1978年帰国。当初よりフリーランスのモータージャーナリストとして活動し、すでに45年の活動歴を持つ。著書に三栄書房、カースタイリング編集室刊「世界の自動車博物館」シリーズがある。 現在AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)及び自動車技術会のメンバーとして、雑誌、ネットメディアなどで執筆する傍ら、東京モーターショーガイドツアーなどで、一般向けの講習活動に従事する。このほか、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」で自動車関連出品の鑑定士としても活躍中である。また、ジャーナリスト活動の経験を活かし、安全運転マナーの向上を促進するため、株式会社ショーファーデプトを設立。主として事業者や特にマナーを重視する運転者に対する講習も行っている。
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