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トヨタ「2000GT」誕生のきっかけは「日本グランプリ」でした! 少数精鋭で挑んだ開発秘話とは?【国産名車グラフィティ】

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TEXT: 片岡英明  PHOTO: 木村博道/日本自動車工業会/AMW編集部

  • 2000GTのフロントマスク

  • 2000GTのフロントマスク

国産初のFIA公認記録を獲得! 技術の粋を集めた珠玉のスポーツカー

リトラクタブルヘッドライトを組み込んだ低いロングノーズに、ショードデッキからなる優雅なフォルム。しかし、その美しい姿とは裏腹にモータースポーツでの勝利を目指して開発されたのがトヨタ「2000GT」だ。プロジェクトのスタートから約2年で輝かしい戦歴と世界記録を樹立したのである。

デザインの美しさと速さを兼ね備えたフラッグシップの提案

1960年代、マイカーブームが訪れ、日本のモータリゼーションは一気に加速態勢に入る。だが、技術的には欧米に大きく後れを取っていた。それを実感したのは日本グランプリレースを観戦したときだ。ヨーロッパ製のスポーツカーが大挙して押し寄せたが、そのいずれもが速かった。そしてデザインも美しい。

1964(昭和39)年の第2回日本グランプリ(三重県・鈴鹿サーキット)でトヨタのチーム監督を務めた河野二郎は、ピュアスポーツカーの必要性を痛感し、フラッグシップにふさわしいスポーツカーの開発を提案した。最高の性能を要求されるスポーツカーを開発すればトヨタの技術レベルは飛躍的に高まり、レースで優勝すればイメージアップにもなると考えたからだ。

トヨタの首脳陣は、スポーツカーの開発を承認する。8月のお盆明けから開発に着手し、コードナンバーは「280A」に決定した。

開発リーダーの河野二郎はレーシングカーと同じように、少数精鋭で開発を行おうと考え、5人の若手エンジニアと1人のドライバーを選んだのである。

基礎研究を開始するとともに、研究用にジャガーEタイプやロータス・エランなどを購入した。開発のパートナーには、オートバイの分野で高い技術力を知られる「ヤマハ発動機」を選んでいる。

シャーシはロータス・エランを参考にして、軽くて剛性の高いX型バックボーンフレームを開発。サスペンションは前後ともに設計自由度の高いダブルウィッシュボーンとすることが決まった。

エクステリアとインテリアは、アメリカのデザインスタジオ(CALTY)で学んできた野崎 喩が腕をふるった。

ロングノーズにショートデッキの2シーターとし、ファストバックの美しいクーペスタイルとした。利便性を考え、リアにはハッチゲートを装備している。また、アメリカの法規基準を満たしながら低いノーズを実現するために、先端に格納/昇降式のリトラクタブルヘッドライトを採用した。

インテリアも、野崎 喩がパッケージングからデザインまでを担当している。これをヤマハが原寸大のモックアップモデルにした。ラック&ピニオンのステアリングギヤを採用し、ステアリングコラムにはテレスコピック機構の採用を検討している。また、ヤマハならではのウッドパネルを用いる案も浮上する。

パワーユニットは新設計したかったが、開発期間を短くするためクラウン用に開発していたM型直列6気筒SOHCをベースに、ヘッドまわりをDOHC化することに決めた。これを担当するのは、高回転型エンジンを作り慣れているヤマハだ。トランスミッションは、レース参戦もあるから5速MTを基本に開発する。だが、早い段階から3速ATの搭載も視野に入れられていた。

短期間で信頼性と耐久性を熟成するためプロトタイプでモータースポーツへ参戦

3M型直列6気筒DOHCエンジンは、ボア、ストロークともに75.0mmのスクエア設計で、総排気量は1988ccだ。奇しくも旧プリンス系のG7型エンジンと同じである。だが、3M型はDOHCヘッドを載せ、高回転まで鋭く吹き上がるように燃焼室は半球形で、クロスフロータイプだ。燃料供給はソレックスキャブを市販車に、レース車両にはウェーバーと考えていた。

最初の目標は、最高出力を150psレベルに引き上げることだ。5速MTを駆使して0‒400m加速は15秒台を狙い、200km/hでのクルージング走行が可能と、高い目標を掲げた。チューニングしたレーシング仕様は200psの大台越えと最高速度250km/hが目標だ。

短期間のうちに熟成させ、耐久信頼性を高めるためにレース参戦を考えた。上層部からはマニュファクチャラーズ・チャンピオンシップへの参戦も提案されている。年間500台を生産してGTカテゴリーの公認を取れば出場が可能で、ル・マン24時間レースへも挑戦できるからだ。

試作第1号車は1965年8月にヤマハで完成し、トヨタに渡された。そして10月の第12回東京モーターショーに参考出品。純白のボディをまとい、足もとにはワイヤーホイールが煌めいていた。来場者の視線を釘付けにしたことは言うまでもない。ショーが終わると、すぐにレース車両の製作に取り掛かった。初陣は1966年5月に富士スピードウェイで開催される第3回日本グランプリだ。

アルミボディのプロトタイプが製作され、テストを繰り返した。エンジンは思うようにパワーが出ず、ハンドリングもクセが強い。地道に改良を続けながら第2回日本グランプリに2台を送り込んだ。このレースで細谷四方洋のマシンがプリンスR380に続く総合3位を獲得する。その後は耐久レースに的を絞り、6月の鈴鹿1000kmレースで待望の初勝利を挙げた。

次の目標は、日本高速自動車試験場を舞台にしての72時間スピードトライアルである。夏前から準備を進め、イエローとグリーンのカラーリングを施した2000GTを完成させた。空力面で不利なリトラクタブルヘッドライトはリベットで塞がれ、スポットライトに加え、グリルにはフォグランプを組み込んでいる。スピードを一定に保つため、アクセルペダルも改造していた。

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