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「ヨタハチ」ことトヨタ「スポーツ800」は「地上に降りた小さな航空機」愛らしいフォルムはいまもカワイイ!【国産名車グラフィティ】

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TEXT: 片岡英明  PHOTO: 芝 修/一般社団法人日本自動車工業会/Auto Messe Web編集部

航空機技術を投入した空力ボディを採用

トヨタが未開拓のスポーツカー市場に初めて足を踏み入れたのがトヨタスポーツ800である。経営的リスクを回避するため、スモールカーとして開発していたパブリカとパーツを共用。エンジンはわずか790cc。それでも優れた空力性能と580kgという軽量ボディによって、最高速155km/hを実現した。

空気抵抗を低減し持てるパワーを最大限に発揮させる

日本の自動車産業は1960年代になると右肩上がりで急成長を遂げている。その最初の年となった1960年(昭和35年)、乗用車の生産台数は前年比2.1倍になり、初めて15万台を超えた。自社の技術力だけでクラウンを生み出し、成功させたトヨタは、第2弾として投入したミドルクラスのコロナに続く第3弾を考えていた。それが1960年の第7回全日本自動車ショーに参考出品し、1961年6月に発売したスモールサイズのファミリーカー、パブリカだ。

ボトムレンジを任されて登場したパブリカは、トヨタの販売台数を大きく伸ばす先兵の役割を果たし、カローラを生む原動力にもなった。

セダンの需要が伸び、生産台数が増えると、首脳陣やエンジニアは欧米の自動車メーカーと同じようにスポーツモデルが欲しくなる。だが、新たに開発するとなると大きな投資が必要だ。日本のモータリゼーションは軌道に乗り始めたばかりのため、ユーザーにスポーツモデルを買う余裕はない。そこで知恵を絞った。

リスクを最小限に抑えるため、社内にある既存のユニットを使ってスポーツモデルに仕立てることだ。

トヨタは軽量コンパクト設計で、燃費もいいパブリカ700のメカニカル・コンポーネンツを用い、エンジンやサスペンションをチューニング。その上にクーペボディを被せる手法を選んでいる。

そうはいっても、この時代はセダンを買うのが精いっぱいで、スポーツモデルの市場は未開拓である。そこで最初は、エアロダイナミクスや高性能エンジンの研究からスタートした。この研究プロジェクトのリーダーを務めたのは、トヨエースやパブリカを手がけ、この後、カローラの主査も務めた長谷川龍雄だ。デザインはダットサン110セダンなどを描いた佐藤章蔵に依頼した。

研究用のプロトタイプは、コードネーム23Aと呼ばれている。いろいろな案が出されたが、素材の研究も兼ねていたので、ボディはFRP製樹脂を使って成形した。プロトタイプの製作などを担当したのは、パブリカを手がけた関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)の人たち。リーダーの長谷川龍雄は、パブリカの量産化が佳境に入っているときに、並行してスポーツモデルの研究プロジェクトも推し進めた。

同時に登場した本命市販車を凌ぐほど大注目される

23Aの研究が一段落すると、これをコードネーム145Aと名付けたプロトタイプの研究プロジェクトへと発展させている。リーダーの長谷川龍雄は、トヨタに入る前は立川飛行機のエンジニアだった。専門分野は飛行機、とくに翼型に関しては第一人者。だからエアロダイナミクスには、強いこだわりと信念を持っている。自動車においても空力デザインと軽量化を重視した。

145Aは、誰もが驚く個性的なスポーツクーペとなる。ロングノーズにショートデッキのフォルムは柔らかい面で構成され、愛らしい。

最大の特徴は、ライトプレーンのように大きく前後方向に動くルーフだ。研究用に製作したクルマのためスライド式のキャノピーを備えるも、ドアはない。ルーフをキャビン後方にスライドさせ、ボディをまたいで乗り降りする。

モノコック構造のボディはスチール製。だが、軽量化のために薄い鋼板を用い、内部に発泡ウレタンを充填して強度を高めている。パワーユニットは、パブリカに積んでいるU型697cc空冷水平対向2気筒OHVだ。ただし、パブリカでは28ps/4300rpmだった最高出力は、38ps/5500rpmまで高められている。

最初は研究用のため一般に公開する予定ではなかった。しかし、社内での評判が上々だったため、1962年秋の第9回全日本自動車ショーにコンセプトカーとして参考出品している。プレートに付けられたネーミングは「パブリカ・スポーツ」だ。一緒にお披露目したパブリカ・オープンを脇役にしてしまうほど、圧倒的な人気を誇ったので、正式な開発プロジェクトに昇格させている。

量産モデルへ向けた開発は1963年半ばから本格化し、夏には左右にドアを設け、スライド式キャノピーに換えて脱着式ルーフを採用する案が出された。展示車と同じように三角窓はない。好評だったフロントマスクとリアビューは、イメージを残しながらリファインしている。

東京モーターショーと名乗った1964年の第11回ショーには、デザインを一新したプロトタイプを、再び「パブリカ・スポーツ」の名を付けて披露した。

脱着式のディタッチャブル・ハードトップに2枚のドアを装備したが、強度が足りなかったので開閉はしないガラスの三角窓が加えられた。日本で初めてドアに採用したカーブドガラスも注目装備のひとつだ。

エンジンについての細かい説明はなかったが、パブリカから譲り受けた水平対向2気筒OHVエンジンは、排気量を100ccほど引き上げていた。ショーカーは4速マニュアルトランスミッションを組み合わせ、最高速度150km/hと発表されている。ショー会場などでネーミングを公募し、大きな関心を呼んだ。

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