ル・マンの快挙ののち、現在に至るまでのヒストリー
1956年に開催されたル・マン24時間レースは、100年の歴史のなかでももっとも危険なレースのひとつとなったことで知られている。部分的に舗装されたサーキットをほぼ絶え間なく雨が襲い、ボディ全幅をカバーするウインドスクリーンを義務づける新しいレギュレーションもあって、ドライバーにとっては最悪のコンディション。その結果、49台中14台しかフィニッシュを果たせなかった。
予選18位から追い上げたフォン・トリップス伯は、7月29日の早朝には#0104を総合7位で走らせていた。ポルシェの経営陣からのプレッシャーを一身に背負ったフォン・フランケンベルグとフォン・トリップスは、レース終盤まで果敢に戦い抜き、平均速度98マイルで総合5位、1.5リッター以下のスポーツカークラスでクラス優勝を飾ったうえに、「パフォーマンス・インデックス(性能指数賞)」でも2位を獲得した。
ル・マンでの快挙ののち、550A-0104は特徴的なファストバックルーフを取り外し、1956年8月5日、「ニュルブルクリンク・ラインラント」で4位に入賞したあと、ポルシェ・ファクトリーからアメリカの著名なプライベートチームオーナー、ジョン“ザ・キングフィッシュ”エドガーに譲られる。
エドガーは1956年11月4日、ドライバーにピート・ラブリーを起用してパームスプリングスで#0104をデビューさせたが、もっとも注目すべき戦果は1957年の「セブリング12時間レース」。一流のドライバーとマシンがひしめく中、映画「フォードvsフェラーリ」でも知られることになったケン・マイルズが、ジャン-ピエール・クンストルと組んでクラス2位(総合9位)を獲得したことだった。
その後、クンストルはエドガーから#0104を購入し、1958年夏まで北米各地のレースで大成功を収めたが、輸送中の事故により手放すことにした。
新たに所有者となったワシントン州シアトルのジョージ・ケックは、極端に低く構えたアルミボディを作らせるとともに、北米ポルシェ・ディーラーのヴァセック・ポラック、ジョン・フォン・ノイマン、ファクトリー・メカニックのロルフ・ヴュータリッヒから調達したコンポーネンツで機関部を作り直した。
さらに1960年までに#0104はタッド・デイヴィスの手に渡り、シボレー・コルヴェア用(!)の空冷フラット6OHVエンジンに、ポルシェ356用5速トランスアクスルを組み合わせて搭載。1962年シーズンの後半まで、SCCAの北西太平洋地区戦で活躍した。
そののちも何人かのオーナーがレースに投入させたが、1966年をもってアメリカにおける現役を引退。1980年代以降は、クラシックカーレースなどでその姿を見せていたという。
そして2004年、存在が薄れかかっていた550A-0104は、ポルシェ創成期のコンペティション・プロトタイプの分野では世界有数のコレクターとして知られるフリオ・パルマズによって発見されることになる。パルマズが所有するレストア工房は、すぐに550A-0104を1956年のル・マン仕様に戻すという大事業に取り掛かった。
圧倒的な高評価を得たレストアを終えて以来、#0104が公衆の面前に現れる機会は限られていたものの、2015年の「アメリア・アイランド・コンクール・デレガンス」、2018年の「第4回レンシュポルト・リユニオン」、2022年の「ロレックス・モントレー・モータースポーツ・リユニオン・レース」でのル・マン100周年記念展示などは、記憶に新しいところであろう。
1956年のル・マン24時間レースでデビューし、ポルシェのファクトリーチームカーとしてクラス優勝と総合5位入賞を果たした550Aプロトタイプ“ル・マン”ワークスクーペが「ポルシェの王族」に名を連ねる存在であることは間違いない。
その歴史に加え、生来の姿を取り戻した完璧な修復も加味して、RMサザビーズ北米本社は550万ドル~750万ドル、つまり約8億2000万円~約11億1700万円という驚異的なエスティメートを設定した。
ところが、実際の競売では「Reserve(リザーヴ:最低落札価格)」に及ばず、いわゆる流札となったのだが、オークションの直後に顧客と個別商談が成立したと発表された。
これほどの話題となった個体ゆえに、購入者の素性や販売価格が明るみに出る恐れのあるオークションでの取り引きを避け、秘密裏に入手する。この種の超有名(≒超高価格)な車両のビジネスでは、比較的多く見られる事例のようだ。