今年で誕生から60周年記念を迎える三菱の高級セダン
三菱重工業(当時)が高級車として「デボネア」を発売したのは今から60年前の1964年のこと。以来1984年まで22年もの長寿車となり「走るシーラカンス」と呼ばれた初代から、3代目が1999年に終焉を迎えるまでの道のりを、モータージャーナリストの中村孝仁氏が振り返ります。
60年代の少年にとってデボネアは憧れの存在だった
1960年代に少年時代を過ごした私にとって、日本の自動車の変遷はそれはワクワクする楽しいものであった。まだ、勝鬨橋(かちどきばし)が開いていた時代から東京モーターショーに通い、自動車と過ごすのがとても楽しかった。当時日本で高級車と言えば、トヨタ「クラウン」と日産「セドリック」が双璧である(プリンス「グロリア」も入れるべきか)。ドイツでいえばメルセデス・ベンツとBMWといったところ。これに第3勢力として進出を試みたのがいすゞの「ベレル」と三菱の「デボネア」であった。
そして子ども心に高級車というものを認知させたのが三菱のデボネアであった。何故か? 理由はいたって簡単で、クラウン、セドリックにしてもあるいはベレルにしても皆タクシー車両が存在した。プリンスの場合はグロリアではなく廉価版とも言えた「スカイライン」が使われていたように記憶する。ところがデボネアに限ってタクシーは私の知る限り存在しなかった(リリースを読むと存在したが、東京で見かけたことはなかった)。
クラウン、セドリック、ベレルは街でタクシーを拾えば乗ることができた。もちろんまだタクシーを街で拾う身分ではなかったから、祖父に「おい、円タク拾ってこい」と頼まれると勇んで道に出て、自分の乗りたいクルマに手を挙げて、ほんのわずかな道のりだが乗って楽しんでいた。しかし、デボネアにはお目にかかれなかったから残念ながら乗った記憶がなく、その位置付けは私の中では高級車だったのである。
じつはお蔵入り紙一重だった三菱の高級車プロジェクト
デボネアの販売開始は1964年のこと(東京オリンピックが開催された年だ)。しかしその歴史の背景は、一歩間違えばこのクルマが誕生しなかったことを社史が詳細に記している。それはどういうことかというと、当時三菱重工業の社内では高級車の開発をすべきか否かで賛否が渦巻いていた。そんな折、イタリアのフィアットとの技術提携話が持ち上がる。
高級車分野が未開だった三菱は、サンプルで送られてきた「フィアット2100」を国産同クラスと乗り比べた結果、操安性、加速力、静粛性等、当時の国産車より数段優れていることが実証され、フィアットと提携条件などを詰め、通産省に認可申請を出すところまで行ったのだという。しかし同じ三菱重工業から別件の認可申請が出されていて、通産省としてはどちらか1件しか認可できないと言われ、二者択一からフィアットを諦めた経緯があり、これによりデボネアの開発に駒を進めたというわけなのである。
アメリカン高級車の雰囲気をまとっていた
当時の日本車はアメリカの影響を強く受けたデザインが採用され、わが道を行くトヨタを除けばラップラウンド・フロントウインドウを採用したセドリックにしてもデボネアにしても、アメリカを連想させるスタイリングを持っていた。とりわけデボネアの場合、デザインをしたのが元GMのデザイナー、ハンス・ブレッツナーであったから、余計そう感じさせるものなのだと思う。スタイリング的には1961年のリンカーン「コンチネンタル」を彷彿させると言われたが、たしかによく見るとそのディテールは似ている。元GMデザイナーのはずなのにフォード系のリンカーン似とは面白い。