一流イベントにも参加権のある275GTBは、予測どおりの3億円オーバー!
フェラーリは、このシャシーナンバー「06705」を1964年10月27日にモデナ市内のスカリエッティへと引き渡して、スチール製ボディに「ネロ(黒)」レザーの内装を施したのち、再びマラネッロのファクトリーによって「ロッソ・チーナ」のボディカラーで仕上げられた。
完成した左ハンドルの275GTBは、パワーウインドウと3基のウェーバー社製40口径キャブレターを装備してニューヨークに移送。1965年3月にフェラーリの有力プライベートチーム「ノース・アメリカン・レーシング・チーム(N.A.R.T.)」を創設したことで知られる「ルイジ・キネッティ・モーターズ」社を介して、ファーストオーナーのカール・アイバーソンに売却された。
アイバーソン氏は1974年まで、約10年にわたってこのクルマを所有したのち、カリフォルニア州サンフランシスコのカール・E・ドレイク・ジュニアに譲渡した。
1982年、この「ショートノーズ」は、フォートワースを拠点とするディーラー、ロバート・ドリスによって、新たにテキサス州へと移されたものの、彼はほどなくこの275GTBを「Ferrari Market Letter」へと掲載した。その際の広告には、シャシーナンバー「06705」が赤ボディ/黒インテリアで仕上げられた「前オーナーが2人しかいない素晴らしいオリジナルカー」であると記されていた。
その後、このフェラーリは1986年に同じテキサス州のルイスヴィルに住むジョン・R・アンダーソンによって購入された。彼はその後7年間275GTBを楽しんだが、その後この個体はオランダへと輸出され、クラシックカーのスペシャリストであるウォルター・グラタマ氏の管理下に置かれた。
フェラーリ・クラシケは取得済み
グラタマ氏の管理のもとにある間、シャシーナンバー「06705」は2005年7月に独ニュルブルクリンクで開催された第11回「モデナ・モータースポーツ・トラックデイズ・コンクール」をはじめとする、数多くのフェラーリ・ワンメイクのコンクールに出展されたとのこと。ニュルブルクリンクでは、著名なフェラーリの歴史家マルセル・マッシーニ氏を審査員に迎え、「1960年代のロードカー」クラスで優勝の栄冠に輝いている。
そののちもヨーロッパ大陸に残された275GTBは、2015年3月に「フェラーリ・クラシケ」の審査を受けた。ここで、シャシーとエンジンのマッチングナンバーが認められたほか、交換されたギアボックスが正しいタイプであることが確認されている。
その後7月、カンブリア州カーライルを拠点とする新たなオーナーに引き取られた275GTBは、それ以来イギリスに居を構えている。英国上陸ののちまもなく、この個体はグロスターシャー州ノースリーチにあるクラシック・フェラーリのスペシャリスト、ボブ・ホートンのもとに送られ、2016年1月から7月にかけて、総額7万8882ポンドを投じた作業により、V12エンジンの脱着とリビルトが行われている。
さらに2021年5月にもホートンの手で新品エキゾーストの取り付け、シートの改修など、1万4923ポンドの費用をかけてメンテナンスが行われたとのことである。
強気のエスティメートに思えたが……
2022年4月に現在のオーナーによって購入されたこの英国登録車は、近年はほとんど走行していないとのこと。また、今回のオークション出品に際してはフェラーリ・クラシケの「レッドブック」、オーナーガイド、純正ツールロール、ヒストリーファイル、赤のリアウインカーレンズ、そしてマッシーニ氏によるレポートも添付されていた。
RMサザビーズの公式カタログでは「フェラーリのクラシックカラーをまとい、当時のオプションである「ボラーニ」社製ワイヤー・ホイールを装着したこの275GTBは、“フェラーリ・カヴァルケード・クラシック”、“ラリー・デ・レジェンド”、パームビーチとアブダビの“カヴァリーノ・クラシック”、“モデナ・チェントオーレ”など、数々の一流クラシックカー・イベントにも招待されるであろう」というPR文とともに、170万ポンド~190万ポンド(邦貨換算約3億4000万円〜3億8000万円)というなかなか強気のエスティメート(推定落札価格)を設定していた。
そして迎えた競売ではエスティメートの範囲内に収まる174万8750ポンド、現在のレートで日本円に換算すれば3億4975万円というビッグディールとなったのである。

































































