ウェーバー装着とホイール&タイヤ交換で念願の筑波デビュー
とりあえずできあがって、筑波でデビューしないことには、何のために一生懸命直してきたのかわからない。だいたい子供の頃からせっかちで、ゆっくりじっくりと仕上げていく根気というものがなかった。
プラモデルを買ってきても、その日のうちに作り上げてしまわないと気に入らない方だった。それが、手に入れてからそろそろ2年近く経っている。その間、乗った距離といえば、わずか数百キロ。まともに走らないのだから仕方がないと言えばそれまでだが、もっとも遠出しても、東京から第三京浜を港北まででは情けない。
それに、塗装が終わったらすぐに、キャブレターを手持ちのウェーバーに変える作業と、タイヤ&ホイールを変える作業が待っている。これをやらないことには、筑波は走れない。今付いているソレックスは、どうもメインジェットが少々詰まっているのか、ガバッと開くと、すぐに咳き込んでしまうのだ。
これらの作業がすべて終わって、マッキナ・ヴェルデとなった僕のベレットGTRが帰ってきたのは、筑波のヒストリックカー・フェスティバルのおよそ1週間前だった。いきなりサーキットでは何なので、キャブの調子を見るために走ってみた。
ほとんど電子制御燃料噴射しか知らない今の人に、キャブのクルマをドライブしろと言っても、ひょっとすると難しいかもしれない。夏と冬では吹け方が違うし、気温差でも違う。山に上がったりすると、途端にぐずつくこともある。それが、ひとつ口径の大きなキャブだと、なおさらだ。
マッキナ・ヴェルデにはウェーバー40DCOEという口径40φのキャブを付けていた。レスポンスはすごくいい。ただ、現代のクルマのように、いきなり床までアクセルを踏みつけると、必ずためらう。それとともに軽いジャダーを伴って、「ゴボゴボッ」と気難しい音をたてた後、背中を蹴飛ばされたように(当時はそう思った)、猛然と加速するのである。
この「ゴボゴボ」を避けるためには、アクセルをゆっくり、その後一気に開けば良い。けっして今のクルマでは聞けない「シュワーッ」というキャブレターの吸入音と共に、素晴らしいツインカムサウンドを聴かせてくれる。ここまで来れば、目的の99%は達せられた。残りの1%で、筑波を走れば、僕はそれで満足だった。
筑波では、ロールバーが入っているわけでもないので、レースやスポーツ走行はできない。だから、マッキナ・ヴェルデはファミリー走行に参加しただけだ。それに直ったとはいえ、振動が止まったわけではない。高速ではせいぜい120km/hがいいところだ。だから、このクルマのお楽しみは、2速で引っ張った時のウェーバーの吸入音と、ツインカムサウンドなのである。
残したスペアキーがマッキナ・ヴェルデと連れ添った証
わけあって、マッキナ・ヴェルデはその後、里子に出さなくてはならなかった。もちろん、依然としてオーナーは僕だし、自由に使えるという点ではこれまでと同じだった。しかし、置き場所が東京の反対側。こっちが城南なら、マッキナ・ヴェルデは城北地区に置かれる羽目になった。必然的に乗ってやる機会も遠のく。手に入れた時は、もう誰にも渡さないつもりだったけど、恋は移り気。いつしか面倒も見なくなり、結局やるはずだったインテリアのレストアは見送ることに。そして請われるままに、岡山のエンスージアストに譲ることになった。
電話での応対だけで、僕のマッキナ・ヴェルデを買っていった岡山の某君は、きっと心からベレGを愛していたに違いない。彼が岡山からわざわざクルマを取りに来た日。外は、しのつくような雨が降っていた。前日磨き上げてワックスをかけたボディに、水滴が放射状に滑り降りていた。エンジンは一発でかかり、快調なファーストアイドルをする。それを見て彼も、わざわざ岡山からやって来たことに満足したようだった。
キーを渡す時、一瞬のためらいがあった。じつは、彼には未だにひとつしかキーを渡していない。スペアを渡さなかったのだ。それは、僕の元に5年も住みついた、マッキナ・ヴェルデに対する未練でもあった。あれからおよそ40年以上経った今、マッキナ・ヴェルデのスペアキーは、僕の手元にある。他の僕の元に住みついたマッキナたちのスペアキーとともに。
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