歴史の綾に消えた悲劇のレーシングカー
デ・トマソP70は、レギュレーションによる車両規制の緩やかな「Can-Am選手権」参戦カテゴリーとして設計され、より厳格なFIA「グループ7」規約には対応していなかった。そのため、鬼才ピート・ブロックは数多くの革新的なデザイン要素を実装することができた。プレクシカバー付きのヘッドライトや上部をカバーした後輪に加え、信じられないほど低いボディ一体型のウィンドスクリーンと、高速時において相当なダウンフォースを生む調整可能な後部エアロフォイルを特徴とする。
ところが残念なことに、デ・トマソの7Lエンジン計画がシェルビー側のスケジュールより遅れてしまったため、アメリカ側はプロジェクトをキャンセルした。強力な7LのV8エンジンがなければ、P70は激戦が予測されるCan-Am選手権で闘うには十分な競争力を得られず、かといってP70のスペックは、企画当初からFIAグループ7レギュレーションを意図的に無視して策定されていたため、FIA「世界スポーツカー耐久選手権(WSC)」レースへの投入は不可能だった。
さらに、プロジェクトの要であったキャロル・シェルビーが、フォードとの間で「GT40」によるル・マン制覇プログラムの統括を引き受ける契約を結んだことも、デ・トマソの決断に影響を与えたに違いない。それでも、シェルビーに劣らぬ戦略家であるアレハンドロ・デ・トマソはプロジェクトを迅速に再編成し、製作台数は1台のみながら、なんとかP70を完成にこぎつけた。
そのかたわら、デ・トマソは次期市販モデルとなる「マングスタ」の開発をサポートさせるため、カロッツェリア「ギア(Ghia)」社の実質的買収に成功。元々ギアとは関連のないP70も、1965年のトリノ・モーターショーにおいてギア・デ・トマソ「スポルト5000(Ghia De Tomaso Sport 5000)」と改名・再ブランド化されることになる。
トリノ・ショーでスポルト5000として展示された後、P70はデ・トマソ工場の片隅で分解された状態で長年保管された。そのまま歴史の闇に葬り去られる運命かと思われたが、じつに40年近い時を経た2004年になって、デ・トマソの熱心な愛好家にして研究者でもあるフィリップ・オルツィク氏が、かつてP70と呼ばれたものを発見し、その栄光を取り戻すための取り組みを開始する。




























































































