クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • デ・トマソ工場からの帰路で体験した衝撃事実!初観のクルマを元F1ドライバーがドライブ
CLASSIC
share:

デ・トマソ工場からの帰路で体験した衝撃事実!初観のクルマを元F1ドライバーがドライブ

投稿日:

TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)

  • デ・トマソ スポーツ5000:スポーツ5000 1966年のムジェロ500kmに出場したマシン。P70は実質的な兄弟車
  • デトマソ2000コンペティツィオーネ(右)とヴァレルンガベースのレーシングカー(左)
  • デ・トマソF3
  • 何故ここにあるのかは不明だが、カロッツェリア・ギア時代のジウジアーロがデザインしたオールズモビル トール
  • デ・トマソ ヴァレルンガ:バックボーンフレームを・持つヴァレルンガ。デトマソ初のロードカーだった
  • 工場内にずらりと並ぶデ・トマソのレーシングカー
  • デ・トマソ ロンシャン
  • デ・トマソ マングスタ(右)とパンテーラ(左)

イタル・アメリカンの象徴、デ・トマソという存在

モータージャーナリストの中村孝仁氏の経験談を今に伝える連載。今回は、イタリアン・エキゾチックカー「デ・トマソ」をめぐる体験談です。創業者アレハンドロ・デ・トマソが築き上げたブランドの足跡、そして工場を訪ねた際に偶然乗せてもらったクルマを運転していたのは“伝説のテストドライバー”との忘れ得ぬ邂逅。その日モデナで味わった緊張と興奮を振り返ります。

アレハンドロ・デ・トマソが歩んだ波乱の経営史

デ・トマソというイタリアン・エキゾチックカーのブランドをご存じだろうか。古くはヴァレンルンガやパンテーラなどが、日本でも馴染み深いモデルとして人気を得た。ヴァレンルンガにしてもパンテーラにしても、搭載するエンジンは外部から調達し、とりわけ人気を誇ったパンテーラがアメリカンV8を搭載していたことから「イタル・アメリカン」などと呼ばれた。

自社製エンジンを搭載したフェラーリやランボルギーニなどの、いわゆる「サラブレッド」モデルとは一線を画し、当時は比較的手に入れやすいリーズナブルな価格で提供されていた。今でも時折中古市場に出てくるが、その価格は最低でも当時の倍以上の値段が付けられて販売されている。

さて、そんなデ・トマソの創業者、アレハンドロ・デ・トマソ。アルゼンチンで誕生し、後にイタリアに帰化した人物だが、当初はレーシングドライバーを目指した。

それが成功しないと分かると今度はコンストラクターに転身し、1959年にデ・トマソ・アウトモビリ SpAを設立。すぐにレーシングカーを製作するが、フェラーリやアルファ ロメオと大きく違っていたのは、早々とロードカー制作に乗り出したことである。

前述したヴァレンルンガやパンテーラに加え、マングスタ、さらにはラグジュアリーなドーヴィルやロンシャンなどを次々と世に送り出した。同時並行的にレーシングカーの制作も行ったが、こちらはあまり成功していない。

さらに1960年代から1970年代にかけては、多くのイタリアの至宝メーカーをM&Aで取得。そのなかにはカロッツェリア・ヴィニャーレやカロッツェリア・ギア、オートバイメーカーのベネリやモト・グッツィなど。自動車会社ではイノチェンティやマセラティなどが次々とデ・トマソ傘下となった。とくにマセラティは、政府に資金援助があったとはいえ、倒産の危機から見事に再生させ、今に至ることはご存じのとおりだ。

そんなデ・トマソも1993年に脳卒中に見舞われ、会社の経営を息子のサンティアゴに委ねることになったが、仕事は精力的に続けた。倒れた年に発売されたダイハツ「シャレード デトマソ」のデザインは、彼が関与したとされている。

アレハンドロ・デ・トマソは2003年に他界しているが、デ・トマソ・アウトモビリという商標は今も存続している。というよりも、2019年に復活して現在に至る。P72と呼ばれるロードカーを72台生産するとして復活した。とはいえ、その生産はなかなかスタートせず、ようやく今年になって量産モデルの生産が開始されたようだ。ちなみに1970年代同様、採用されたエンジンはフォード製のV8である。

12
すべて表示

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS