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「スカイラインの父」からの手紙 「スカイラインは本当に幸せなクルマだった」櫻井眞一郎が語った二つの拠点の記憶 【櫻井眞一郎没後15周年特別寄稿vol.10 最終回】

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TEXT: 山崎真一(YAMAZAKI Shinichi)  PHOTO: GT-R Magazine  FACT CHECK: 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)

設計の荻窪より生産の村山を好んだ「スカイラインの父」 その理由は血の通った人の関係にあった

初代プリンス「スカイライン」から開発に携わり、2代目S50型から7代目R31型の途中まで長きにわたり開発責任者を務めた「スカイラインの父」こと故・櫻井眞一郎氏。没後15年を迎える特別寄稿の最終回は、設計拠点だった荻窪工場の思い出である。毎日通った荻窪工場よりも、生産拠点であった村山工場を好んだと語った櫻井氏の意外な理由を、生前のインタビューから紐解いていく。

設計も生産も「いいクルマをユーザーに届ける」の一点で徹底されていた

わたしは設計者として、長きにわたりスカイラインというクルマに向き合ってきた。その設計拠点が、東京都杉並区の青梅街道沿いにあった荻窪工場だ。プリンス自動車を知る人間であれば、必ず話題に挙がる「オギクボ」である。その前身は、中島飛行製作所の東京工場があった場所だ。戦闘機用エンジン(ゼロ戦や隼が搭載した「栄」や疾風や紫電改が搭載した「誉」など)を手がけた技術者たちの思想とノウハウは、平和産業である「自動車生産」への転換に挑み、富士精密工業を経て、プリンス自動車へと受け継がれていった。

われわれ設計の人間は、「いいクルマをユーザーに届ける」という一点に、すべてを集約していた。机上の理論ではない。使われ、走らせ、長く愛されるクルマでなければ意味がない。その考え方は、設計部隊だけのものではなかった。生産を請け負った村山工場も、まったく同じ方向を向いていたのだ。上に立つ人間から、現場で組み立てを行う作業者に至るまで、驚くほど意識が徹底されていた。

ただ、不思議なことに、毎日のように通っていた荻窪よりも、村山で過ごした記憶のほうが鮮明に残っている。試作車がポプラ並木に突っ込んだこと。技術部門を統括していた中川良一さん(元「誉」エンジンの設計主任)の足を踏みつけながら、運転を教えたこと。どれも、昨日のことのように思い出される。

1981年、荻窪の車両開発部門は日産テクニカルセンターへの移管で役目を終えた

設計の拠点であった荻窪工場は、1981年、神奈川県厚木市に開設された日産テクニカルセンター(NTC)への移管によって、その役目を終えた。村山工場よりも、ひと足早い終焉である。ちなみに、荻窪にはその後も航空宇宙部門が残り、1998年まで操業を続けた。

そのとき、わたしは、村山が閉鎖されたときほどの感傷はなかった。最近、久しぶりにオギクボを訪れたものの、胸を締めつけられるような感情は湧かなかった。それは自分でも意外だった。

思い出がないわけではない。エアコンのない時代、バケツに水を張って足を浸し、うちわで扇ぎながら図面を引いたこと。何度も徹夜を重ねたこと。少しお酒を飲んでから、また仕事に戻ったこと。今では考えられないほど自由な時代だった。ちなみに、役員に無理を言って導入したIBM1130というコンピュータは、当時としては目が飛び出るくらい高価なものだった。それでもスカイライン、さらにはレーシングカーであるR380の開発に大きく貢献した。富士精密、プリンス自動車と社名が変わっていく激動の時代に、わたしはクルマの開発に没頭したのだ。

荻窪と村山を分けたのは「人と人との血が通った関係」があったかどうかだった

それでも、である。荻窪には「設計者としての時間」はあっても、「自分自身の居場所」という感覚は、どこか希薄だった。だからだろう、荻窪を去るときに涙は出なかった。ところが、村山工場が閉鎖されたとき、わたしははっきりと涙した。胸に熱いものがこみ上げてきた感覚は、今でも忘れられない。

その理由は明確だ。村山には、人と人との血が通った関係があった。立場や部署を超えて、同じクルマを造っているという実感があったのだ。設計屋、実験屋ではない、ひとりのプリンス人として工場と深い関係を築けたことが、そう思わせたのだろう。

7代目の途中までの長い間、わたしはスカイラインの陣頭指揮を執っていた。当時の車両設計のトップは田中次郎さんだ。わたしに任せっきりで、文句を言うことはなかった。プリンス自動車は日産自動車よりおおらかな社風だったものの、オギクボには中川さんと田中さんの確執など、耳を塞ぎたくなるようなこともあった。当時、そのたびに、何ともいえない寂しさを感じていた。

ユーザーを第一に考え設計、生産されたスカイラインだから作り手に愛され、使い手に寄り添い、時代を超えて走り続けた

ところが村山は違う。生産に責任を持たされていたから、いつもピリピリしていた。工場長から「櫻井くん、ちょっと」と呼び出され、難題を突きつけられることもしばしばだ。ただ、同じ目線、同じ目標を掲げて議論を交わしていたから、煩わしいと思ったことは、一度もない。上から下までフランクで、風通しがよかった。だから好んで村山に足を運んだ。伸び伸びと仕事をしていたのは、間違いなく村山だったと思う。

今やプリンス自動車を象徴するそのふたつの拠点は、もう存在しない。それでも、荻窪と村山で育まれた文化は、開発や生産に携わった人たちの心のなかに、今も確かに生き続けている。この二つがなければ、スカイラインもグロリアも生まれなかった。そして、これほど長く、人々に愛されるクルマにはならなかっただろう。

ユーザーのことを第一に考え、設計され、生産されたスカイライン。あのクルマは、作り手に愛され、使い手に寄り添い、時代を超えて走り続けた。

「スカイラインは、本当に幸せなクルマだった」

わたしは、今もそう思うのだ。

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  • 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)
  • 山本 亨(YAMAMOTO Tohru)
  • 1960 年生まれ 大学卒業後ベストカーガイド編集部勤務。1990年オートスポーツ誌に転職、1992年F1速報誌(アズエフ)編集長。1995年月刊ビデオマガジン編集部に転職、1996年ベストモータリング編集長(のち局長兼務)。2005年ネコパブリッシング・イベント本部長/4輪編集局長兼務。2015年交通タイムス社に転籍、2020年より現職(総編集局長)自動車の分野に問わずオールマイティだが、特に旧いモータースポーツとクラシックカーに造詣が深い。愛車は1969年DATSUN Fairlady SRL311/YAMAHA RD250ほか

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