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ミスターGT-Rが語る愛車への熱き想い。「究極」は追求し続けるために存在する

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TEXT: GT-R Magazine 野田航也  PHOTO: 北畠主税/日産自動車/ポルシェAG

先達の主義を継承し変化させる。今はまだ終わりなき進化の過程

 これまで話したことはありませんが、本当はガングレーではなくシルバーが希望でした。ハコスカGT-Rのイメージもあって、自分で買うならシルバーと決めていたのです。しかし、ガングレーになったのも何かの縁。’89年の10月に納車になったときは、「スカイラインにまた戻って来られた」と実感しました。

 ケンメリ、ジャパンに乗っていた時期があり、それ以来、久々に手にしたスカイライン。しかも、少年時代から憧れていたGT-R。まだ発売から間もないころで、どこに乗って行っても注目の的。東京モーターショーの会場に乗って行ったときには、駐車場で自分のGT-Rの周りに人垣ができるほどでした。

「GT-R Magazine」誌の読者ならば、わたしがR32にチューニングを施していることを知っている方も多いでしょう。しかし、新車で買ってから1年間はフルノーマルで通しました。好みにイジる前に、まずはノーマルとしっかりと付き合ってみる。これは昔からわたしが実践してきたことです。じっくりと時間を掛けて、そのクルマの得意不得意を知る。そして限界を見極め、足りないところを補うのが本来のチューニングです。トータルバランスが取れていないとイジる意味がありません。

R32GT-Rのインパクトによって世の中が変わった!

 ノーマルのまま乗ってみると、サーキットなどの走行では「やっぱりクラッチが弱いな」とか「ブレーキがちょっと甘いな」ということがわかりました。それでもチューニングした他車より全然速い。コーナリング性能など雲泥の差です。ストラット/セミトレのクルマと4輪マルチリンクサスの差を感じました。時代がひとつブレークスルーして、クルマのベースがガッツリと上がった。それが’89年だと思います。R32GT-Rのポテンシャルの高さが世の中を変えたと言ってもいいでしょう。

 その後、販売店への出向を経てから日産に戻り、後にR34型スカイラインGT-Rの商品企画を担当することになりました。その間もR32はずっと所有し続けており、ほかのクルマに乗り替えるという考えはまったくありませんでした。新しいR33型GT-Rのほうが空力もいいですし明らかに速い。それでも自分なりに仕上げてきたR32の輝きは失せることはありませんでした。惚れた弱みとでも言いましょうか。

温度管理の重要性からR34には前代未聞の標準機能を盛り込んだ

 そして、R34の企画を担当するようになり、ボディの強さなどを知るにつれ、「これはもうR32とは比べものにならないな」と思ったのも事実です。それでも27歳のときに知り合ったR32は、自分にとって親友のような存在であり、永遠のパートナー。しょっちゅう会うわけではないけれど、たまに会うと居心地の良さがある。そして、車内に乗り込んだときに感じるいろんな匂い。燃料だったり自分の汗だったり、また当時はタバコも吸っていたのでその匂いだとか、至るところに歴史が詰まっている。だからこそ離れられません。

 R34GT-Rのマルチファンクションディスプレイにエンジンの油温や水温のほか、排気温度も表示するようにしたのは自分がR32で培ってきた経験からです。エンジンをチューニングしたら排気温度等のコンディションチェックは欠かせません。自動車メーカーが量産車にそれを採用するというのは異例のことでしたが、いろいろなことをお客さまに知ってもらうことが必要だと考えて採用したのです。

 

 R34を担当しているころは、マイナーチェンジを見据えて「Mスペック」と「ニュル」という二つのコンセプトを提案しました。大人のGTとしてのMスペック、レースの技術、即ちN1用のスペシャルを盛り込んだニュル。現在のR35でわたしが掲げている「GT」のゾーンと「R」のゾーンは、すでにR34の時代に構築していたモノです。

 また、R34の発売と同時に’01年に東京モーターショーで発表した、次世代モデルに繋がる「GT-Rコンセプト」の企画も手掛け始めていました。R32はサーキットを走るとアンダーステアが強かった。かといって、ロードカーとしてグループAのようにキャンバー角をマイナス4度とか付けるわけにもいかない。だから、新しい世代のGT-Rはもう少し前後バランスを良くしてちゃんと曲がれるクルマにしたい。

 当然、そういった変化に対する否定意見もありました。しかしR32GT-Rがデビューした時にも、ターボや4駆を採用したことに反発する意見もあったのです。すべてが手放しで歓迎されたわけではなかったと思います。しかし、それも時が経つと変わるものなのです。

市販車のGT-Rはレーシングカーではなくロードカーである

 伊藤修令さんは商品主管としてR32GT-Rを造る際、「レーシングカーではなく公道をしっかりと快適に速く走れるロードゴーイングカーにする」と仰っていました。これはその後の日産が言うところの「究極のドライビングプレジャー」に繋がるスローガンです。櫻井眞一郎さん、伊藤修令さん、渡邉衡三さん(R33型/R34型スカイライン商品主管)にはそれぞれの「イズム」があり、わたしは諸先輩方の考えを継承しつつ、自分なりに探求してきたことが、結果として今のR35GT-Rに反映されていると思っています。

 R32GT-Rは日本のクルマ文化、あるいは自動車技術のステージを引き上げ、数段階ジャンプしたクルマであり、世界的にも大きな影響を与えた存在です。そして’13年、R35GT-R NISMOではドイツのニュルブルクリンクでGT-Rとして初めて世界最速のタイムを記録しました。

 ハコスカがなければR32はなかったし、R32がなければR35もなかった。R32もR35もいわば「通過点」なのです。「究極を目指す」とはそういうことなのだと思っています。

 田村宏志(たむら・ひろし)1984年日産自動車入社。オーテックジャパン、販売店への出向の後、商品企画本部でR34型スカイラインを担当。’13 年4 月からはR35GT-Rのチーフ・プロダクト・スペシャリストとして統括責任者を務める(2022年よりブランドアンバサダーに就任)。

 2021年4月に先行公開されたGT-R NISMO 2022年モデル。「Special edition」にはR34の「V-spec N1」を彷彿とさせるカーボン地剥き出しのボンネットフードや最後の限定車「ニュル」同様の高精度精密バランス取りエンジンを採用。最新モデルにも“田村イズム”が宿っている。

 メンテナンスやチューニングは’93年頃から東京都大田区の「ペントルーフ」に依頼。同店の北林 治代表は田村氏の後輩で30年来の付き合い。田村氏のR32は平成元年式で走行はわずか3万km強である。

 見た目はノーマル風でありながら、最高出力は600psを誇る。かつて谷田部テストコースで300km/hも達成。GT-R NISMOと同じパワーであり、300km/h超の最高速も今のR35のコンセプトに通じる。

 グローブボックスに忍ばせる追加メーターのほか、トランスミッションや前後デフの油温、排気温度などの上昇を知らせるワーニングランプも備わる。このR32が「只者ではない」ことが伝わってくる

※この記事は2021年8月1日発売の「GT-R Magazine 160号」に掲載したものを元に再編集しています)

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