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日産R32「スカイラインGT-R」は使いこなせるパワーがコツ。セッティング能力の高い「緑整備センター」の目指したデモカーの全容とは

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TEXT: 増田髙志  PHOTO: GT-R Magazine

チューナーの心に残る厳選の1台を語る【緑整備センター 内永 豊会長】

 数え切れないGT-Rを手掛けてきたチューナーが、今でも忘れられない1台について語る。『緑整備センター』の内永 豊会長には思い出深いBNR32がある。ディーラーのメカニック時代に受けていた社員教育の効果は想像以上に大きかった。そのとき培ったさまざまな技術力は最初のデモカー作りのノウハウとして、余すことなく注ぎ込まれている。

(初出:GT-R Magazine 151号)

モトクロスレースの経験でセッティングの勘所を学ぶ

 九州南部に位置する霧島山の麓で生まれ育った内永 豊会長。厳しくも心が躍る大自然が格好の遊び場だった。高校は1年で見切りをつけて九州を後にする。兄のいる神奈川県にあった整備工場に就職した。

「クルマが好きで好きでたまらなかった、というわけではありません。嫌いではなかったけど、将来の生活のために手に職を付ける、といった思いのほうが強かったかな。好きだけでは食べていけませんからね」

 昭和40(1965)年の話だ。そのころは今と違ってクルマが貴重な存在で、個人で使う乗用車よりも、仕事用のトラックのほうが断然多かった。今後は乗用車がどんどん増えていくだろうと予想して、クルマの仕事に携わったのだ。当時はトラックがたくさん荷物を積んでも安定するように板バネを強くする「リーフ増し」ばかりやっていた。

 その整備工場には1年ほど在籍。次の職場は「星モータース」だ。兄を含めた3人が設立メンバーで、それぞれの弟が一人ずつ加わり6人でスタート。今度はベレットやヒルマンといった乗用車も扱うようになり、ユーザーが参戦するレースにもメカニックとしてついて行った。

 事情により星モータースは3年で退社して地元九州に帰ることになった。そこでも自動車整備の仕事に就いたが、九州は想像以上に情報が入ってこない。そうなると最新の技術を取得するには不利なので、半年でまた神奈川県へ戻ることにした。

 今度は自動車のエアコン取り付け、オルタネーターやスターターの修理といった電装関係の仕事を一人でこなしていった。しかしそれも3年は続かなかった。次から次へと仕事を変えてきたが、年齢的にはまだ23歳。

 次の就職先は日産サニー神奈川。このころから公私共に落ち着いてきて余裕が生まれ、バイクのモトクロスレースに夢中になったという。

「これがすごく勉強になりました。足まわりやブレーキの味付けがダイレクトに反映されるのです。バランスの大切さを身体が覚え込みました。クルマだけでは今のようにはなってなかったはず。シビアなバイクに挑んでいた経験は、現在のセッティングのあちこちに生きています」

「ブラックボックス」に挑みセッティングをモノにする

 さらに日産サニーは社員教育にも熱心で、メカニックだった内永会長は研修用の機材を使って技術取得に励んだ。とくに積極的に勉強していたのがコンピュータ。キャブに変わって電子制御が増え始めてきたからだ。ソレックスはもちろん、可変ベンチュリーで調整が難しいと言われているSUキャブのセッティングも得意な内永会長だが、コンピュータは未知のもの。だからこそ必死になって学んだ。次第に制御の仕組みや構造を理解してくると、コンピュータでのセッティングが行えるようになった。当時としては画期的だ。

「今のようなパソコンを使ってのマッピングとはほど遠い手法ですが、工夫して取り組んで対応策を考えました。コンピュータ本体のコンデンサーを変更して抵抗値を変えたんです。こうして燃料を増量させました」

 確かに燃調を濃くすることはできる。しかし、それは狙った領域だけでなく全体に及ぶ。まるでキャブのジェットを変えたような状態だ。それでも「ブラックボックス」と恐れられていたコンピュータに手を入れた内永会長の功績は計り知れない。そのころから現在まで休むことなくコンピュータの勉強は続けている。

「クルマの整備を仕事にしているなら、手が出せない部分は極力なくしたかった。スポーツパーツに交換した場合、コンピュータのセッティングができないと実力は引き出せませんからね。ディーラーにいたころからそれを懸念していました」

 充実していた日産サニー時代は約5年。退社後、『緑整備センター』を立ち上げた。場所は今と同じ。現在は横浜市都筑区だが当時は緑区だった(緑区から都筑区が分区)。その「緑」をとって命名。以前、一緒に働いていた兄、それに日産時代の仲間も引き連れて4人でスタート。内永会長はまだ28歳のときだ。

 今と違って当初は整備がメイン。一部フレッシュマンレース用のクルマのメンテも請け負っていたが、車検や修理の依頼が大半だった。チューニングが増え出したのは1983年ころで、車種でいえばFJを載せたDR30スカイラインからだ。勉強を続けていたコンピュータのセッティングがついに生かせるときがきた。

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